HISTORY1(FM AKI)
ACT1・ 1983年:開局前史①"ラジオ少年覚醒す"
今回は1983年。「えっ?FM AKI WAVE JACKって1985年開局でしょ?」とお気づきの少数派のあなた!(笑)その通りです。なぜこの年を取り上げるかというと、DJこういっちゃんがミニFMにはまるきっかけになった年が1983年なんですね。
その前に・・・私のラジオ好きは小学校の高学年ぐらい(1978年頃)に始まったと思います。両親が夜いつもラジオをつけていたので、私もよく聴いていました。中学生になり自分用のポケットラジオやラジカセを持つようになってからは、深夜放送はもちろん、夏休みや冬休みになると、普段は聴けない昼間のワイド番組や夕方のニュース番組、あと当時よくあった5分~10分のミニ番組・・・早朝から深夜まで、とにかくラジオを良く聞いていました。そこからBCLという趣味になり、国内外のラジオ放送を聴いたりもしていました(これはまたいつかお話ししますね)。
話は1983年に戻りますが・・・。
15歳・中3の初夏。当時の私は引退直前の陸上部で長距離を一応走り、国語の先生を拝み倒して顧問になってもらい立ち上げ、細々と活動していた文芸部それに生徒会役員・・・と忙しく明け暮れていました。
そんなある日、ある同級生が「こういっちゃん、こんなん知っとる?」と雑誌を見せてくれました。そこには「今日から君もラジオ局長さん」みたいなタイトルが。読んでみると・・・
"君もラジオ局長やDJになれる!”"ラジカセとマイクとトランスミッターで手作りミニFMラジオ局"・・・みたいなパステル調(話はそれますが、80'sはやたらとパステル調のファッションが流行っていましたね・・・)の小見出しと、当時の中高生の誰もが欲しかったダブルカセットのラジカセにつながれたマイクを握りヘッドホンをつけて何やらしゃべってる風(?)のおしゃれな風貌のお兄さん、お姉さんの画像。
こ「ラジオとかできるん?曲をかけたり番組みたいなのとか?」
友「そうなんよ!ほら、録音ごっことかしたことない?こういっちゃん」
こ「あるある。番組みたいなのとか適当につくってディスクジョッキーのまねごととかして(カセット)テープに録音したりとか」
友「それそれ!で、それが本当にFMラジオで聴けたら面白いと思わん?番組作ってそれがラジオで聴けるんよ!」
こ「面白そうじゃね。やってみたいね~。」
友「じゃ、やろう!実はね、今度の学校祭(我が母校では文化祭のことをそう呼んでいました)で何人かでやろうと思っとるんじゃけど、こういっちゃんもやらん?」
こ「うん。」
二つ返事はしたものの、その時点ではいまいちピンときてない私。
ラジオって、RCC(中国放送)や広島エフエムみたいに大きなアンテナがいるんじゃないか、とか、中学生が勝手に許可なく広島エフエムみたいなことをやっていいんだろうか?とか・・・彼は何を言っているのだろうと思いつつ、手渡された雑誌を読みすすめていくと・・・ふむふむ、なるほど、大きなアンテナがなくても「トランスミッター」という発信機があればいいのか、法律(電波法)を守る範囲内であればラジオ放送みたいなことが誰でもきるのか、こういうのを"ミニFMラジオ局"というのか・・・だんだん興味がわいてきました。
夏休みになり、私は離れた場所に住む友人宅に泊りに行きました。その時友人がFMワイヤレスマイクという、マッチ箱くらいの小さなマイクを持っていました。マイクのスイッチを入れラジオをFMにしてマイクに向かってしゃべると・・・なんとラジオから友人や自分の声が。これは面白い、と、その友人とラジオ番組のまねごとをしてラジオ局ごっこをしました。
秋になり、とうとう学校祭の日が。2階建ての倉庫の2階から友人たちとその日限りのミニFMラジオ放送を行いました。ラジカセや手のひらにのるほどの小さなトランスミッターは言い出しっぺの彼が全て準備。「こんなに小さい機械でラジオの電波を発信するんじゃね!」と彼に言ったのは今でも覚えていますが、どんな番組で何をしゃべったかはほとんど覚えていません(笑)また、そんなにPRもしていなかったので、当日実際にラジオを聴いた人は皆無だったかと思います。
けれども、実際にラジオから自分や友人の声や曲が聴こえた時の感動は今でも覚えています。そしてこの感動とともに
「こんな面白いことなら自分ひとりでもできそう。やるぞ、ミニFMラジオを!ぼくはラジオ局長そしてDJになる!」
中学生の私の中で芽生えた小さな野望。それは約1年後、現実のものとなるのですが・・・それはまたおいおいということで(次回に続く)。
ACT2・1984年:開局前史②エフエム白島開局!
高校に入学したものの、学校が楽しいとは思えずなんとなくくすぶっていた私。が、GWを過ぎた頃から"こうやって楽しくない、楽しくないと、ぐじぐじしていても、楽しいことが勝手にやってくるわけはない。自分から動いて楽しいことを見つけて掴み取らなきゃ!"そう気持ちを切り替え、そこから"楽しいことさがし"を始めました。
そんな中で、"そうだ、あの野望を果たそう!"と思いついたのがミニFMラジオの開局でした。
そう思うと動き出すのが私の性分。早速、あらためて、自力でミニFMラジオを開局すべくリサーチを開始。インターネットはない時代、情報源はは雑誌等。当時ミニFMラジオはブームとなっていて、日本各地で若者を中心にミニFMラジオ局がオンエアしていました(丁度今でいうところのYoutubeチャンネルみたいなものですね)ので、ミニFMに関する雑誌の記事をさがすのに苦労はしませんでした。理工系の科学雑誌から、およそ"電気"とか"電波"とは無縁のおしゃれなファッション雑誌まで・・・ミニFMラジオは単なるラジオ好きの趣味だけではなく、当時のイケてる若者のトレンドとでもありました。
様々なジャンルの雑誌の特集を読みあさり、ラジオ局開局に必要な機材や番組づくりの参考にとリサーチ。同時に設備を整え始めました。当時私は新聞配達をしていて貯めていたお金で5000円のソニー製FMステレオトランスミッターをついに入手。
帰宅してまず小型ラジオのFMのスイッチを入れ、離れた場所に設置。ラジオからはザーッという雑音しか聴こえません。そしてトランスミッターをコンポのイヤホンジャックにつなぎ、カセットテープを再生し、トランスミッターのスイッチをON!すると・・・離れたところに置いていた小型ラジオから今まさにコンポで再生しているカセットの音楽が聞こえてきました♪さらに、コンポにマイクをつなぎ、「只今試験電波発射中です」としゃべると、離れた小型ラジオから私のMCが・・・もう感動しまくりでした(笑)
当時は高層ビルの10階に住んでいたため、いったいどこまでこのラジオが聴けるのだろう、と、私は小型ラジオを片手にビルの1階へ。ばっちり聴こえています。さらにビル沿いの道路を渡り、しばらく歩いても、雑音がややありながらもまだ聴こえます。。何とか聴こえる距離は、ざっと100メートルぐらいだったでしょうか。
電波というのは、高い位置から発射すればするほどより広範囲に飛ぶという性質があります。高さのあまりない場所や障害物があると、せいぜい10~20メートルしか飛ばないちょっぴり電波も、10階に住んでいることが功を奏して意外なほど遠くまで飛ぶことがわかりました。
”よし、これはいける!”早速番組作りに着手。家族と同居していたのでさすがに生放送は断念。カセットテープにおしゃべりや音楽を録音する形で30分番組にしました。月1~2回の土曜日21:00~21:30の放送だったような気がします。
こうして1984年夏、当時の自宅だった地名から「エフエム白島」を開局。周波数は79.5MHz(メガヘルツMHz)でした。こうしてついに"野望"を果たしたDJこういっちゃんでした。
このエフエム白島は翌1985年2月までの約半年間、計16回の放送を行いましたが、私の小さな野望はこれにとどまらず、少しづつ大きく膨らんでいきます・・・が、これはまた次回に!
こぼれ話・・・当時の”楽しいことさがし"でラジオに関するエピソードをご紹介しますね。
"楽しいことさがし”の情報を集めていた私は、あるラジオ番組で高校生リポーター募集をしていてオーディションがあるという情報を知りました。早速応募しオーディションに参加。ブロックごとに分かれ私はブロック決勝まで勝ち進み、あと1勝でリポーター確定だったのですが、なんと相手は同じ高校の同級生。「甲乙つけがたいんだよね。できれば2人ともにリポーターをやってもらいたいと思って、さっき番組スタッフで何とかならないかと話し合ったんだけど、やっぱりブロックから1名選出というルールは変えられなくて。しかも同じ高校なので余計に2名ともは無理ということになって、ごめんね。」とラジオ局のスタッフさん。結局戦わず2人で話し合って決めることにしましたが、私はあっさり「お前やんなよ!」と辞退してリポーターは同級生にゆずりました。理由は2つ。
1つは、その同級生はクラスの人気者で本当に面白いヤツだったので、こいつなら絶対面白いリポートをするはず!と思ったこと。
もう1つは、決勝まで進み一応ラジオ局の人からやって欲しいと評価されたのだから、それで十分。リポーターになれないのは正直残念だけど、楽しくて貴重な経験ができたし、これからまだまだ"楽しいことさがし"で動いていけば、何かが見つかるはず!と思えたからなんですね。すると未練などなくサッパリしていました。
「お前のリポート、楽しみにしてるよ!がんばれよな!」と同級生に笑顔でエールを送り、そこからさらっと切り替えて、また"楽しいことさがし"に動き始めたのでした。
当時、アナウンサーやラジオリポーターになりたい!と思っていたので、もしあの時リポーターになっていたらひょっとして・・・という考えもできなくはないのですが、逆にあの時リポーターになっていたらひょっとしたら"エフエム白島"も青少年センターに出入りすることも、そしてのちにFMAKI WAVE JACKを立ち上げることもなかったかも知れません。少なくともオーディションから1年後の私は、辞退して良かったと思っていましたし、もちろん今でも私は思っています。
↑これが当時使っていたFMステレオトランスミッター(SONY TMR-FM20)。手のひらにのるどころか、ポケットに入るサイズで単3電池1本でFM電波を発信。
当時トランスミッターはウォークマン等の携帯音楽プレーヤーのアクセサリーとして売られていました。これをプレーヤーのイヤホンジャックにつなぎ、FMラジオを受信できるワイヤレスイヤホンで聴くという用途。ちょうど今でいうところのBluetoothを使いワイヤレスイヤホンで音楽を聴くのと同じ感じですね。
ちなみに、このトランスミッターは今でも持っています。さすがにもう使うことはありませんが、電池を入れてスイッチをONにすると、今でもちゃんと作動するのです。
ACT3・1985年①:"ラジオ少年 単身電気屋にのりこむ~前編~"
1985年に入ってもエフエム白島は順調に定期放送をしていました。"たとえリスナーがいなくても地道にラジオを続けていけばいい、それだけでも十分楽しい"と思いながらやっていたので、リスナーがいるかどうかなんて気にすることもありませんでした。ただいかんせん自宅の住宅地からの放送なのでできることは限られていました。たとえば生放送や生中継等、思い切ったことはできませんでした(それでもエフエム白島は最終的には全部で計16回の放送を行いました)。
そんな中、以前ワイヤレスマイクを持っていて一緒にラジオごっこをした友人(ここではY君とします)がミニFMラジオ局を始めたという話を聞きました。また、前年の秋から趣味で始めていたライセンスフリー無線で知り合った友人(X君)からも自宅でミニFMラジオ局を始めた、という話を聞きました。
"そうだ、もし彼らと一緒にラジオができたらもっともっといろんなことができるかも!"そう思い始めた私は、まずY君に一緒にラジオをやらないかと持ちかけることを思いつきました。が、ここで大きな課題が・・・それは"いつどこでラジオをするのか"ということ。
当時は3人とも高校生。Y君は平日学校から帰った夜に、X君は日曜日、私は土曜日の夜にやっていましたが、それは自宅だからできたわけです。高校生が平日の夜に定期的に集まるだけでなく、ラジオDJができる場所の確保は現実的ではありませんでした。ラジオをするわけですから機材も置きっぱなしにできる場所でもないといけません。おそらくは2人に声をかけると話にのってもらえそうだとは思っていましたし、そうなると、当然今それぞれがやっているラジオをやめて一緒にすることになるのでしょうから、そう考えると中途半端に2人をさそっておいて"結局できんかったね"にはしたくない、とにかく優先すべきは場所の確保だな・・・と思っていました。
とはいえ、場所をさがすにしても高校生の小遣い程度で毎月賃料を払ってスタジオを借りるのは現実的ではありませんでした。
暗礁に乗り上げたかと思われたところで、ひょんなことから転機がおとずれます。
私はかねてからエフエム白島をもっと充実させるために、既に広島でやっているミニFMラジオ局があれば連絡を取って、可能であればそこに遊びに(聴きに)行ってスタッフの方と顔見知りになって、いつかアドバイスがもらえたら・・・と思っていて、広島でやっているミニFMラジオ局ががあるかどうか調べていました。そんな中、広島でアクティブに放送をしているミニFMラジオ局があることを知りました。そのラジオ局は広島市内中心部のある電気店のイベントコーナーにスタジオを構え、本格的な機材をしつらえ定期的に放送をしている、という、エフエム白島とは比べるべくもないほどのすごいラジオ局。ただ、いつ放送をしているのかはわかりませんでした。
そこで、とりあえずいつラジオをやっているのかを調べる目的で、ある土曜日の放課後、その電気店に行くことにしました。店員さんではなく、店長さんと直接会って聞いてみよう、と思いながら・・・(理由は後述)。
お店に着くと、女性の店員さんを発見。
DJこ「すみません、店長さんはいらっしゃいますでしょうか?」
店員「店長はおりますが・・・ご用件は何でしょうか?もしよろしければ私がお伺いして対応できることでしたらしますよ。」と優しくおっしゃった店員さん。
DJこ「ありがとうございます。ですがすみません、店長さんに用件がありまして・・・すみません。」と申し訳なさそうに(というか、こんなに優しく対応して下さるのにそれを断ってまで店長さんを呼んでいるのが心苦しくて本当に申し訳ないと思いました)頭を深々と下げた私。
私が店員さんに用件は敢えて伝えず何とか店長さんと直接話をしようと決めていたのには理由がありました。というのも、お店からすれば、乾電池やカセットテープを買いに来たわけではない、つまりお客さんではない高校生が1人来ているわけです。よしんば店員さんに用件を話して(店員さんにもよるのでしょうが)その場で門前払い、という可能性だってあるわけです。店長さんと直接話して断られたら諦めはつくけど、店員さんの判断で門前払いとなったら絶対に後悔することになる、どんなに店員さんから用件を尋ねられても、用件はお伝えせず店長さんに取り次いでもらい直接話をしよう、と心に決めていたのです。
店員「わかりました。少々お待ちくださいね。」笑顔でお店の奥に向かう店員さんを見ながら少し申し訳ない気持ちになりつつ、店長さんを待っていた私。
しばらくすると、作業着にちょっとひげをたくわえた、テレビの海外番組で見たような、南米で陽気に暮らしてらっしゃるような雰囲気(←その時私は本当にそう思いました)の中年の男性が私に向かってやって来ます。
店長「店長の〇〇です。ご用件は何でしょうか?」
笑顔の店長さんにほっとした私は早速用件をお伝えしました。すると店長さんからは思わぬ言葉が・・・。
「ああ、あのラジオね。ありゃあもう何年か前にやめてしもうちゃってね、もうやってないんですよ。」
ええ~!もうやってないんだ!せっかく勇気を振り絞ってお店に来たのに。本格的なミニFMラジオ局が見たかったのに・・・残念!
・・・と心の中でかなり落胆した私。
ところが落胆したのもつかの間、私の中では別の考えがとっさに浮かび、これまたとっさに店長さんに向けて、ある"行動"にでました。まさに、ピンチがチャンスに変わるきっかけとなる瞬間でした。
その"行動"とは・・・次回につづく(笑)
ACT4・1985年②:"ラジオ少年 単身電気屋にのりこむ~後編~"
店長「店長の〇〇です。ご用件は何でしょうか?」
こ「突然お伺いしてすみません。実は電器のことじゃなくて。僕は今ミニFMラジオ局をやっていまして、こちらで本格的なミニFMラジオ局をやっていると聞いたものですから、どんな放送をやっているのか聞いてみたいと思いまして。ただ放送日や時間がわからなかったので直接そのことを聞きに来ました、すみません。」
アポなしで、しかも電器のお客様相談でもない高校生の私にも、まるでお客様のように笑顔で丁寧に応対して下さった店長さんは
店長「ああ、あのラジオね。ありゃあもう何年か前にやめてしもうちゃってね、もうやってないんですよ。」
ええ~、やってないのか、残念・・・と思いつつ、とっさに別のことを思いついた私はすぐさま店長さんに
こ「それは残念です。店長さん、もしよろしければ放送をしていたスタジオだけでも見せてもらえますか?」
店長「ああ、いいですよ。でもちょっと物置みたいになっとるけどね・・・。」
笑顔でこちらへどうぞ、との案内に導かれ、私はお店の奥に入り、階段を上がり3階へ。
ドアを開け中に入ると、そこには30人ぐらいなら会議机を並べても会合ができるぐらいの広い空間が。
店長「ここは元々うちの店の催し物会場でしてね。ここでラジオをやってたんですよ。」
・・・と言いながら窓を開けて下さった店長さん。すると、午後の日差しとともに、賑やかな広島市内中心部界隈の風景が・・・。
その景色を見下ろしながら、私の頭の中では"妄想"いやアイデアがどんどんうかんでいました。たとえば
・3階からなら電波はそこそこ飛びそうだけど、ビルに囲まれているからサービスエリア(※放送を聴取できる範囲)はああまり見込めないな~。でも道行く人や車に見えるよう、窓に"FM〇〇只今放送中"とかポスターを掲示できればいいか
・商店がけっこうあるなあ。そうだ!生放送番組でお店に突撃インタビューとかいいかも。お店のPRにもなるし、ラジオのPRにもなるかも。あと、ラジオを聴いてもらえたらいいなあ。そしたらサービスエリアが見込めないのもカバーできるかも
・放送機材も置かせてもらえたら、毎回持って来ずにすむかも・・・等々(汗)
そこで私は店長さんに
こ「店長さん。ここ、いいですね。僕は今自宅でラジオをやってまして、どこか別の場所で何人かでラジオをしようかと思っていますが、ここをお借りすることはできますでしょうか?」
高校生が大人を相手に、よくもまあこんな無謀なお願いをしたものだなあ、と今にして我ながら思いますが、その時は無理を承知でダメもとで、当たって砕けろ、みたいな気持ちで言ったと思います。何を言ってるんだ、とか、賃料をもらうようになるので、とか、言われるんじゃないかと内心どきどきしながら店長さんの言葉を待つこと一瞬(笑)
店長「ああ、いいよ!こんな場所でもよかったら」
こ「あの、お部屋代とか家賃みたいなのは・・・」
店長「いらないですよ。ただね、今物置として使ってて入口側のスペースに商品を置いたりするからあけといてくれたらいいかな」
こ「ラジオはそんなに大人数ではなくて、この窓側のちょっとのスペースをお借りできれば機材も十分置けるから大丈夫です。ありがとうございます!」
店長「いつからかな?うちはいつからでもいいですよ」
こ「そうですね・・・一度、一緒にラジオをするメンバーともう一度見に来てもいいですか?」
店長「いいよ!(笑)」
・・・こうして、思わぬ展開で場所の確保をクリア。
1985年の秋、私はY君に正式に声をかけ、あらためて一緒にミニFMラジオ局を立ち上げることに。いよいよ開局に向けて怒涛の準備が始まるのですが・・・それは次回ということで(笑)
↑画像手前はミニFMを始めるにあたり、Y君たちとの打ち合わせに向けて私が作成した冊子"MINI FMラジオ局(FM)ON AIRに向けて・・・・・"、画像奥は"FM AKI"の打ち合わせノート。開局準備の記録からのちに青少年センターへ移転する頃までの放送内容や”番組編成会議”と称したミーティング等、様々な記録が残っています。いずれも若気の至り感満載で、まともにお見せできませんが・・・(笑)
ACT・5 1985年③:実録・怒涛の開局準備!
活動拠点と放送&スタジオとなる場所が決まり、いよいよ開局に向けての準備を開始。以下、開局までの動きをドキュメント風にご紹介します(笑)
10月26日:Y君と一緒にあらためて"放送予定地"となる電気屋さん(以下「スタジオ」)を訪問し、放送場所の環境の確認とスタジオでどんな感じで放送をするかを打ち合わせ。準備していたトランスミッターでラジオの試験電波を発射。一人はスタジオに残り、もう一人は外に出て八丁堀界隈を、ラジオを片手にサービスエリア(ラジオの聴取可能範囲)をチェック。
11月1日:X君もメンバーに加わることに。
11月2日:X君、ミーティングに初参加(晴れて3人が揃っての初ミーテーィング)。スタジオにて打ち合わせを行い、放送で使う機材の最終確認、ラジオ局名、周波数、開局日、定期放送日、放送時間、番組内容等を決定。開局日は11月16日(土)、ラジオ局名はこの3年前に開局したばかりだった、広島エフエム放送(現:HFM)みたいな本格的なFMラジオ局を目指すという、気持ちだけは大いなる意気込みで(笑)"FM AKI(FM安芸)"に、周波数は79.1MHz(メガヘルツ)、定期放送日は隔週土曜日、放送時間は学校が終わって集まりやすい14時30分から17時に決定。
11月6日:DJこういっちゃん、お便りやリクエストの宛先として私書箱を開設するため広島中郵便局へ(またしても単身乗り込み(笑))。「私書箱はいっぱいで今空きはないんですよ、ごめんなさいね。」と局員さん。その足で広島中央郵便局に行き同じ相談をしたところ「それなら局留(留置)という方法もありますよ。」とのアドバイスをいただき、再び広島中郵便局に行き局留の申し込みをしその日のうちに手続きを完了。お便りの宛先は"広島中郵便局留 FM AKI(FM安芸)”となる。
11月9日:スタジオにてミーティング。この日は開局1週間前ということで、機材やDJブース、試験電波発射等、最終確認をしました。また、開局準備の予算立て(当時の経費はカセットテープ代、コピー代、封筒代、切手代等しめて860円)を3人で均等に分けて支出することを決定。タイムテーブル、ベリカード、そして今も使っている"FM AKI"のレッドのステーションロゴを制定。デザインを手がけたのはY君。"なかなかイカしたデザインだ!すごいな~"と、当時の私はY君のセンスに感動したものです。余談ですがこの日はスタジオでの合流ではなく、広島市青少年センター1階ロビーで合流。約2か月後、この場所が私たち3人の新たな活動拠点になろうとは私も含め誰も思っていませんでした(笑))。
そしていよいよ、開局日となる1985年11月16日(土)を迎えるのですが・・・それは次回ということで。
↑当時使っていたスタジオ。ラジオ放送をする時は、窓に沿って並行にDJブースとなるテーブルを配置し、その上にラジカセやマイク、トランスミッター等をセッティングし、3人は横並びで窓に向かって放送をしていました。3階の窓から八丁堀界隈の街並みと人や車の行き交う賑わう様子を眺めながらのDJは最高でした!
それから時を経た現在、青少年センター中2階からハノーバー庭園や中央公園を眺めながら毎回爽快な気分でラジオDJをさせていただいていますが、その原点は間違いなくこの場所での体験だと思っています。
ちなみにこのスタジオ、普段はこのように電気屋さんの倉庫兼会議室兼催し物会場として使われていました。画像両端の奥に、マイクスタンドや譜面台、オーディオラックやイーゼル等、おそらくかつてこの場所で活動をされていたミニFMラジオ局さんが使われていたであろう備品が残っていました。
ACT6・1985.11.16:FM AKI開局・前編
学校が終わり、13時30分から14時頃にかけて、私とY君がスタジオ入り。放送開始の14時30分に向けてDJブースのセッティングを開始。準備がすすんでいきましたが、X君はなかなかあらわれません。何かの事情やアクシデントで来れなくなったのか、はたまた遅れて来るのか・・・携帯電話がなかった当時は連絡を取り合う通信手段は皆無でしたので、気長に準備をしていましたが、14時30分がいよいよ近づいてきたので私とY君で急遽打ち合わせを行い
「(X君が)間に合わんかったらタイムテーブルをちょっと変えて、15時30分から30分間はつなぎのミニ番組でも入れようかね~。」ということに。
ちなみに開局当初のタイムテーブルは以下の通りでした(番組紹介文は当時の資料より)。
14:30:ハロー八丁堀TOWN:パーソナリティは私(DJこういっちゃん)。"紙屋町とともに中国地方一の大都市の広島の
買い物の中心・八丁堀。そんな八丁堀についてのいろんなおしゃべりとその他tもろもろ(!?)でつくる、30分間で
す。"(録音番組)。
15:00:土曜の午後はてっぽーちょー:パーソナリティはY君。"「番組で、いろんなことをやってみたい。」と、スタッフ
は言う。さて、いったい、どんな番組なのか?それは聞いてのお楽しみ。"(録音番組)
15:30:SOUND of MUSIC:パーソナリティはX君。"FM安芸の番組の中で、番組名を聞いて、内容もわかりやすそうな唯
一の番組がこの"SOUND of MUSIC"。番組の中でどんな"音"や"音楽"が出るのでしょうか?(録音番組)
16:00:ナマナマ16時!!:パーソナリティは3人。"FM安芸でただ一つの生(放送)番組。何しろ三人でDJをするのだから、
どんな番組になるのやら!?いつまで続くかなぁ。"(生放送番組)。
録音番組は、3人がそれぞれ自宅でカセットテープに録音して当日持ち寄ることとしていました。
14時25分、試験放送開始。
「・・・お聴きの放送はFM AKIです。周波数79.1MHz(メガヘルツ)でお届けします・・・」の私の声をのせた電波が八丁堀界隈に飛んでいきました(目には見えませんでしたが・・・(笑))。
こうして14時30分、開局。
「Hello!! はっちょーぼりタウン!!・・・」軽快なオープニングテーマをバックにわざと少々テンション上げ気味での私のタイトルコールとともに、3日前に自宅で収録したばかりの"ハロー八丁堀TOWN"がスタート。
ついに始まった!・・・と感慨にふける間もなく私はY君に「ちょっとサービスエリアをチェックしてくるけえ」と伝え、ハンディラジオを片手に外へ。自分の声が広島のど真ん中・八丁堀でラジオから聞こえた時"やったじゃん!"と心の中でハイテンションに(笑)
15時、Y君の録音番組開始。X君はあらわれず。
そしてついに15時30分。Y君とのかけあいで音楽中心のミニ番組でつないでいる途中、待望のX君到着!学校が長引いてしまって・・・と申し分けなさそうなX君でしたが、いやあよかった!アクシデントに見舞われたわけでもなく無事に着いて。何よりこれで開局日の生放送番組を3人でできることになった、と、私はそんな風に内心思いながらX君の到着を喜んでいました。
役者が揃ったところで時刻は16時に。いよいよFM AKIの看板番組であり、のちに(FM AKIとしての活動中止となるまで)長寿番組となる"ナマナマ16時!!”がスタート。キャッチフレーズの通り"何が飛び出すかわからない"ハプニング&爆笑続出となった1時間の生放送の中身については・・・次回ということで。
↑1985年、FM AKIが放送していたビル(画像真ん中のビル)。当時は電気店のビルでした。このビルの3階からラジオ放送をお届けしていました。放送時間中このビルの3階の窓には・・・
↑"FM安芸 79.1MHz 只今放送中"という私作の手書きのポスターを掲示していました。今のように家庭用のパソコンが普及していない時代。手軽に作りすぐプリントアウト・・・ということは一般的ではない時代でした。
余談ですが、このビルは現存しています。電気屋さんはかなり前になくなってしまい、今は別のお店として使われているようです。さあ、どこにある何のビルでしょうか・・・わかりますか?(笑)
ACT7・1985.11.16:FM AKI開局・後編
16時ジャスト、明るく軽快なオープニングとともに「なまなまっ!じゅ~ろくじ!!」と私がタイトルコール・・・のはずが、準備していた音源の頭出しがうまくいかず、真逆の悲しくなるようなピアノのメロディが流れました。思っていたオープニングとは違う曲に一瞬戸惑いつつも、私はとっさの判断で「なまなま、じゅうろくじ・・・」とトーンを落としてタイトル コールをして曲はF.O.。そのあと、3人で「なんだこれは~!!」と爆笑の中、"どんな番組になるのやら!?"わからない生放送番組・ナマナマ16時がこうしてスタート。当日はこんな番組の進行でした。
オープニング
3人の自己紹介(メインMC:私):番組開始早々からハウリングが発生。ラジカセのミキシングボリュームを調整しながらMCを続ける。シャイなX君は多くを語らず。
今日の1曲目:Y君セレクトの曲
FM AKIの各番組の紹介(メインMC:Y君):Y君の安定したMCの振りにこたえながらスタジオ内の離れたところで番組PRポスターを作成する私。
今日の2曲目(私セレクトの曲)
学校生活のこと(かけあい)・・・何度も言いますが、当時は3人とも別々の高校に通う高校生。学校名は伏せつつ、ばれない程度に学校の設備等を話しました。この間窓越しに焼き芋屋さんのリヤカーの音や(若い人、わかりますか?)車のクラクションが時おりBGMになりました(笑)
今日の3曲目(X君セレクトの曲)
スタジオを飛び出せ!コーナー(生中継):Y君とX君をスタジオに残し、私は無線機片手に街に飛び出し、待ち行く人にアポなし突撃インタビュー。4人の街行く人をゲットしFM AKIのPR。その後私はスタジオ近くのパン屋さんに飛び込みでインタビュー。店長さんにお店のPRをしていただく。この時間はY君がメインMCで私との掛け合いから私が次のインタビューに入るまでの時間をMCでつないだり、中継のコンディション等無線機器の調整(メカニック)をX君が担うなど、絶妙なコンビネーションのもと、何とか無事生中継は終了。
エンディングトーク:3人で次回予告。
ハプニング続出のナマナマ16時!!でしたが、番組終了時には、「次回は2週間後に会いましょう!」と笑顔で締めくくりました。
午後のあっという間の数時間。いろいろありつつもこうして何とか開局初日の放送が無事終わりました。
「また再来週ね!」私たち3人はやり遂げた達成感と満足感いっぱいで、秋が深まり日がどっぷりと暮れた八丁堀をあとにしたのでした。(次回に続く・・・)
ACT8・1985~:FM AKIのPR活動 ~投稿・ついにマスコミが取材に~
隔週土曜日の放送を開始したFM AKI。前述のとおり、開局当初より放送時間中のスタジオ(のビル)のポスター掲示や近隣の商店や街行く人へのインタビュー等のPR活動を行いましたが、もう少し広域的なPRをしたいよね、とスタッフで話し合い、次に取り組んだことは
”マスコミなどの媒体を使ってのPR”
・・・こう書くと、何だかすごいことをやったように受け取られそうですが、そこまで大それたことではなく、地元(広島)の情報誌の情報コーナーにFM AKIの情報を掲載してもらおう!というもの。
今であればネットを通じて、SNS等様々な媒体で活動をUPすることが手軽にできるのでしょうが、インターネットが無かった1980年代は、PR方法といえばテレビやラジオの出演か新聞や雑誌などの紙媒体に掲載されるぐらいしかありませんでした。しかも、高校生が趣味でやっているミニFMラジオ局など、よほど有名にでもならない限り、テレビやラジオが取材に来ることは皆無な状況。
無名なのだから待っていても仕方がない。自分たちから動かなくては!と、手始めに行ったのは、当時月2回発行していた、広島のラジオの情報誌への投稿。そしてついに、FM AKI開局間がない11月20日発行のその情報誌の情報コーナーに"募集します!"の見出しとともに、FM AKI(安芸)開局と、お便りやリクエスト募集の記事が掲載!以後この情報誌には次月の放送予定やDJ募集等、手元に残っている資料からですが少なくとも4回ほど掲載されました。
こうして少しずつですが、FM AKIの存在が知られていく中で、1986年、ついに新聞社から取材の依頼が。地元紙の報道部の記者の方が取材をしたい、との連絡がありました。当時 FM AKIは活動拠点を青少年センターに移していたので(この件はまたいずれ取り上げます)、高校生だけで運営しているミニFMラジオがそちらで活動しているという情報を得まして・・・みたいな感じで、新聞社の方からセンターに問い合わせがあったようでした。
新聞社からの取材のオファーなんて、こんなにうれしいことはない!と思いつつも、センターに迷惑がかかってはいけないので事前に相談してみようと思った私は「この取材を受けてもいいですか?」とセンターの職員さんに尋ねました。すると「こういっちゃんたちがよかったら、取材をぜひ受けんちゃい!FM AKIのPRにもなるし、若者の活動場所としてのセンターのPRにもなれば、ウチらもうれしいしね!」とセンターの職員さん。かくして、1986年2月15日、センター3階音楽室(現・第1音楽室:FM AKIはここをスタジオにしてラジオ放送を行っていました)にて初めて新聞社の取材を受けました。その後新聞に記事が掲載され、メンバーで喜び合いました(その後この新聞社からはWAVE JACKとなった1992年にも取材を受けました)。
さらに、1987年には今でも発行されている某地元の情報誌からも取材のオファーがあり、この時は情報誌のオフィスにて取材を受けました。こうして、FM AKIは少しづつ(いや少しだけ)認知されはじめました。が、私は開局から数回の放送を重ねていく中であることが気がかりになっていました。その結果、ある大きな決断をすることになりましたが・・・それはまた次回で。
↑"FM AKI(安芸)開局"のPRが掲載された、広島のラジオ情報誌。この情報誌当時月2回発行され書店に並んでいて、PR効果は大きい媒体だったようです。以後この情報誌では頻繁にFM AKIの記事を掲載して下さり、一時この情報誌での"常連"になるほどでした。
↑当時地元の情報誌に掲載された、FM AKI(安芸)の記事の一部。制服姿でインタビューしているのは当時18歳の私。生放送番組・ナマナマ16時!!の"スタジオを飛び出せ!コーナー"のひとコマ。青少年センター入口付近、SLの前にて。
あの頃は、自分たちが趣味でこつこつやっている活動が少しづつ世に広まっていくこと、大げさに言えば自分たちがやっていることが世の中にわずかだけど影響を与えていることがうれしくて、またそれが活動へのモチベーションにもなっていった気がします。"もっと楽しいラジオに、もっとクオリティの高いラジオに・・・"と、私は思っていた気がしますし、当時培ったそんなスピリットが、今もFM AKI WAVE JACKでの活動にも息づいている気がします。
ACT9 ・1985年:FM AKI 移転計画、そして移転へ
マスメディアを使ってのPR活動が功を奏したのか、お便りがぼちぼち届きはじめ、スタジオの近くにある商店でラジオを流して下さるようになったり・・・と順調にスタートを切ったFM AKIでしたが、一方で大きな課題もありました。
そのうちの1つが、生中継時の混信。"ナマナマ16時!!"で無線機を使って生中継(突撃インタビュー)をしていたのですが、少しだけ技術的な話をすると、この無線機を使っている電波が街中の雑音を拾いやすいタイプで、近くを通る車の往来や電線等による雑音が多く、スタジオとのやりとりがスムーズにいかないこともありました。そこはスタジオに残ったパーソナリティのMCのつなぎのテクニックでカバーしていましたが・・・。
もう1つ、こちらが大きな課題でしたが、メンバー3人のうち誰かが放送時間に間に合わないことがしばしば。私は当時通っていた高校からスタジオまでは自転車でもさほど時間はかからなかったこともあり間に合わないことはほとんどなかったのですが、Y君やX君の通う高校は、いずれも広島市内でもスタジオから離れていたため、学校がちょっと長くなると集合時間の14時には間に合わないという、致し方ない事情がありました。また、帰りも通勤ラッシュ(1985年当時は週休2日制等まだ一般に広まっていなかった時代で、多くの会社は土曜日もフルで仕事をするのが普通でした)がひどく仕事帰りや繁華街で行きかう人混みの中を自転車で、という状況に。
最悪”ナマナマ16時!!”に間に合えば、準備は来たメンバーですればいいね。間に合わんかったら2人でも1人でもできる放送にすればいいし・・・と3人で申し合わせをしていたので、遅れることを誰もどうこういうことはなかったのですが、私個人としては「ごめんごめん」と申し訳なさそうにスタジオにやって来るY君やX君に逆に申し訳ないなあ、とも思っていました。また、行きかえりの混雑の中で自転車で事故に遭ったら・・・なども気がかりでした。
そこで、何か良い方法はないか・・・と思っていたところ私は以前からあたためていたあるアイデアを2人に提案することに。
12月13日(土)のラジオ放送終了後、メンバー3人で青少年センター1階ロビーでの定例ミーティング(当時、ラジオが終わり17時から青少年センターに移動して1階ロビーで反省会&次回の放送に向けてのミーティングをしていました)にて、私は一つの提案を2人にしました。それが・・・
FM AKIのスタジオ移転&活動拠点の固定化。場所は青少年センター
「えっ?ここ?ここでそんなことできるん?」と驚いた表情の2人。
「うん。ここじゃったら場所押さえはいるけどスタジオとして使えそうな部屋もあるし、サークル登録をすれば機材をここで保管できるかも知れんしね。こういうミーティングもちゃんと手続きをすれば無料でちゃんとした部屋でできるしね。」
「生中継はどうする?」と興味津々のY君。
「うん、さすがにこの辺は商店街はないけえ、例えばハノーバー庭園の近くを行き来する人たちへのインタビューとか、こども文化科学館や図書館、夏はファミリープールの子どもたちや、県立体育館や(市営)屋内プール(※当時今のグリーンアリーナの一角にありました)に行く人や出てきた人、ナイターがあれば丁度市民球場にカープを見に行く人とか・・・八丁堀とはまた違った人たちのインタビューがいろいろできそうだよ。」
「電車通りや紙屋町からちょっと離れとるけえ、無線機の雑音も拾いにくいロケーションだね。」とシャイで無線中継のメカニック担当でもある(?)X君。
「あとね、ここ(青少年センター)はいろんなサークルが活動してたりイベントもあるから、ここに出入りしてする人たちに向けてリクエストやお便り募集とか、FM AKIのPRや逆にサークルの宣伝にラジオを使ってもらう、とか。センターの職員さんに相談はしなきゃいけないけど、八丁堀でつづけるよりもいろんな可能性はある気がするよ。
実はこの夏から僕はここにいろいろと出入りをしててね。前々からいずれここで(ラジオを)するのはどうかな~と思ってていろいろと調べてはいたんだ。サークル登録も、センターの職員さんに話してみたら、高校生だけのグループでも大丈夫だからぜひぜひ!とのことでね。若者は部屋使用が無料らしいし。場所も(2人の)高校からは少し近くなるしね。帰りも人混みや車とか危ない目に合あわんですむじゃろ?」と私。
「そうじゃね。それに駐輪場があるけえ、道路とか気にせず自転車が止められるしいいね~。」とY君。
のりのりの2人。さらに、これがスタジオで使えたらいいんだけど・・・と私はセンター3階の音楽室(現・第1音楽室)と地下の音楽練習室(現・第2音楽室)に2人を案内。
外から見える窓付き防音室の音楽室を見て「ええ、ここすごいじゃん!」と驚いた2人。
「ここから廊下に向かって通りがかりの人に向けてDJコーナーを設置して、ラジオは出入口に置いて聞いてもらったり、リクエストBOXを置いたり・・・ラジオを置いて流していいかどうかはセンターの職員さんに相談しなきゃいけないけどね。」
と言いつつ、続いて2人を地下の音楽練習室へ。案内しながら私は
「ここは地下のどん詰まりの場所じゃけえ人の行き来はないけど、サークル登録したらすぐ隣の倉庫(現・アングラ劇場)が借りられるかもしれんけえ、機材はそこで保管できてすぐ出せるのと、夕方から丁度目の前の空間で大学生や働いているお兄さんやお姉さんたちがやってる"もぐら"っていう喫茶店が開店するから、そこに来る人たちに向けて放送、とかね。」
「部屋とかちゃんと毎回借りれるんかね~。」かなり興味深々に質問をする2人。
「土曜日の午後は1時から5時はわりと空いてるから大丈夫らしいよ。で、確実におさえるなら毎月1回部屋取りの話し合いがあるらしく、それに参加して予約する方法もあるらしい。その必要があるかどうかはまだわからんけえ、今はまだそこまでせんでもいいかも。もし話し合いに出るようなら僕が出るよ。話し合いは平日の夜かららしいし、僕は家が近いけえ放課後に寄れるしね。」と私。
「いい!ここいいね~」と2人。
「2人がよかったら、今日話し合ったことをちょっと整理して、サークル登録の相談を(センターの)職員さんにしてみるよ。順調にいけば、年明けからここで放送できるようになるかも。」と私。
「ここでミニFM、やろう!」と満場一致で「移転計画」を進めることになりました。
1985年12月17日(水)、私は青少年センターに行きました。
「ミニFMのラジオ、面白そうじゃね、こういっちゃん。ウチらもインタビューとかリクエストとかしていいんかね?」とセンターの職員さん。
「ぜひぜひお願いします!放送のネタは僕らだけじゃ限界があるんで・・・」と私。
セ「じゃあ、今度の代表者会議(センターで活動しているサークルが集まって行う会議)で新しいサークルの紹介とか、リクエスト募集とか紹介しとくね。年明けになると思うけど。」
こ「はい、お願いします。ありがとうございます!」
こうして、この日のうちにサークル登録が完了。地下の倉庫のロッカーを一つFM AKI専用で借りることができました。そして、移転後初回の放送日のスタジオの確保もできました。明けて1986年1月18日(土)、場所は3階音楽室に決定。
12月21日(土)、八丁堀から最後となる放送を終了。"ナマナマ16時!!"にてお別れのあいさつとリスナーの皆さんに感謝のメッセージを伝え、放送終了後にはお世話になった電気店の店長さんや近くでよく生中継をさせていただいていたパン屋さんにごあいさつ。「あれからいっつもラジオ日を楽しみにしてつけとったですよ。さびしゅうなるけど頑張ってね。」とパン屋の店長さん。嬉しさと寂しさと申し訳なさを感じながら、その日のうちに放送機材をセンターの倉庫に運搬。
12月23日(月)、センター第3会議室でミーティング。18日の本放送の前に、電波の届く範囲や生中継で使う無線のテストを1月5日(日)に行うことに決定。場所は3階音楽室を確保。
明けて1986年1月5日(日)14時、センター3階音楽室から移転後初となるミニFMの電波を発射。1時間半ほど「只今、広島市中区基町、広島市青少年センターより試験電波発射中。お聴きのラジオはFM AKIです。」と時々アナウンスを交えながら音楽を流しました。また無線中継のテストも行いました。八丁堀に比べて雑音を拾いにくく、感度も良好。
「ここならいけそうだね!」と確信した私たち。
こうして必要な準備を整え、いよいよ青少年センターへの移転第1回の放送となる、1月18日を迎えることになります
(次回へ続く)。
↑FM安芸(AKI)移転計画案(一部加工)。
ACT10・1986年:青少年センターでのFM AKI①~広がる活動~
年が明けた1986年1月18日(土)15時、先陣を切って私の担当する録音番組"ハロー紙屋町TOWN"にて、青少年センターから"初"となる本放送を開始。続いてY君担当の録音番組"SUPER SATURDAY"、そして八丁堀時代から引き続きとなる"ナマナマ16時!!"と続き、この日の放送は終了しましたが、この日の放送は他にも"初”となる出来事がありました。
一つは、ゲスト出演。
当時、広島県内には把握しているだけでFM AKIを含めて4~5局のミニFMラジオ局が放送をしていましたが、それらの局と手紙のやりとりで情報交換をしていました。広島市内だけではなく、福山や尾道の”局"とも。その中で、FM AKIが開局する前から手紙での交流があったあるミニFM局の局長さんとスタッフさんの2名が、移転のお祝いの挨拶を兼ねてスタジオに遊びに来られたのですが、せっかくだからPRもしませんか?と、急遽"ナマナマ16時!!"にゲスト出演に。
こうしたゲスト出演も青少年センターに移転したからだと思います。来ていただくのに場所の説明がしやすくて、万が一場所がわからなくても公共施設なので電話連絡も取りやすい(何度もお伝えしますが、当時は携帯電話は普及していませんでした)こういった立地が、交流の活性化につながったと思います。これがきっかけで2月には私たちがそのラジオ局に遊びに行きました。
もう一つの"初"は、事前に取材(収録)したものをこの日の"ナマナマ16時!!”で流したこと。取材内容はこの3日前の1月15日(当時の成人の日)に青少年センターで行われた”成人の日の集い”の生インタビュー。テープレコーダーにマイクをつなぎ、私はセンターの館内や屋外で新成人を待ちながら、屋台コーナーで準備をされている若者たち(といっても、当時高校生の私からすればほとんどがお兄さんやお姉さん方か同年代の人たちでしたが)にインタビュー。もちろんその若者たちの多くは、青少年センターで一緒に活動している知り合いだったり、一緒に活動したことがなくてもセンターでよく見かける間柄だったりでしたので、私がマイクを向けると
「こういっちゃん、何しょ~るん」とか「えっ?ラジオなん?」といった反応が多数。おかげで楽しく”初取材”ができました。
2月5日(土)の放送では、"ナマナマ16時!!"にてセンター移転後初の生中継を実施。無線機片手にセンターを飛び出した私は、こども文化科学館(図書館)との間のSL広場前で行きかう人、時にはSLによじのぼりそこで生インタビューも。お子さんから中高生、親御さんなどなど・・・男女を問わず様々な人がこたえて下さりました。それをスタジオで受けながらMCを務めるY君のDJも安定感がありましたし、メカニック担当のX君は電波状態をチェック。当時あまり意識はしていなかったのですが、今思えば3人の絶妙なチームワークで毎回放送したのだと思います。なお、この2月15日は地元の新聞社の方がFM AKIの取材に来られた日でもありました(ACT8参照)。
リクエストやお便りも、以前の郵便に加えて放送中に音楽室前に設置していたリクエストBOXに投函して下さる人も・・・。
青少年センターへの移転を機に、FM AKIの活動は多くの人に知られるようになり、また活動を通じて様々な人たちとの交流も広がり、そのことが私たちのモチベーション向上にも波及し、様々なアイデアや試みが増えていきました。
そんな流れの中、またしてもちょっとだけ広島のミニFMラジオ界(?)で画期的なムーブメントを起こすことになるのですが・・・それは次回に。
余談を一つ。インターネットのなかった当時は、今みたいにリアルタイムでしかも短時間で、どこでだれがラジオをミニFMラジオをやっているか、情報を手軽に入手することはできませんでした。情報の入手手段はもっぱら地元の情報誌や新聞などのいわゆる"紙媒体"がほとんど。但し今と違うのは、当時は個人情報の管理が今では信じられないぐらいゆるかったので、たとえば情報誌にミニFMをやっているとの記事が掲載されると必ずといっていいほど、そのラジオ局の代表者の名前や住所、電話番号が普通に掲載されていました。また、当時はタイムラグはあっても"情報交換しませんか?"と手紙でお互いにやり取りをすることにお互いに抵抗もなく気軽にできていました(もちろん、当時の世の中でも個人情報を悪用する事件は全くなかったわけではありませんが、タイムラグがある分、仮に悪用しようと思っても手間がかかっていたと思うので、そんなケースは今よりも格段に少なかったのだと思いますし、お互いの情報が開示されるのが普通だったから逆に変な意識や先入観を持たず気軽にやりとりができていたのかも知れません)。
大抵のミニFM局は個人宅で放送していたので連絡先はその人の住所や自宅の電話番号でしたが、FM AKIの場合は手紙は郵便局留、電話番号(問い合わせ先)は移転により青少年センターだったので、たまたまですがメンバー3人の個人情報は守られていました。これも、今にして思えば青少年センターに移転したことのメリットの一つだったのでしょう。
↑"ナマナマ16時"の生中継インタビューのひとコマ(1986年)。青少年センター前にて。マイクを向けてインタビューしている制服姿の男子は当時17歳だった私。
↑夕暮れの青少年センター。1986年撮影。センターの建物自体は今と変わっていませんが、画像左には当時のカープの本拠地・広島市民球場のレフトスタンドの広告用巨大看板の鉄塔や3塁側内野席あたりの照明塔が見えます。またこの画像には映っていませんが、右手は、まだ基町パーキングアクセス(地下駐車場)がなかったのでセンター正面玄関から右に2~3秒歩くとすぐ本川の土手に行くことができました(ちなみに今はパーキングアクセスへの導入路の真上になるため、センター正面から本川の土手に出るにはSL前までぐるっと回らないと行けなくなりましたね・・・)。
ACT11・1986年:青少年センターでのFM AKI②~アシスタント募集大作戦!~
FM AKIの開局から3か月後、私たちはまた新たな動きを起こします。それは、ラジオスタッフつまり"アシスタント"の募集。開局後からFM AKIが世の中にわずかながら知られつつあり(本当にほんのわずかでしたが(笑))、とりわけ青少年センターへの活動拠点の移転により活動の幅や自由度が広がる中で、新スタッフという"新しい風"を取り入れることでさらにアクティブなミニFMラジオサークルに・・・と当時思っていたような気がします。
2月上旬、おなじみの広島のラジオ情報誌に"アシスタント募集"の記事が掲載されたわずか1週間後、局留めの郵便物を取りにいつもの郵便局を訪れた私に、すっかりおなじみとなった郵便局員さんが「今日は5通届いてますよ。」と渡して下さったのはいずれもアシスタント応募の手紙でした。"第1次応募"となった5名の内訳は女子高校生3名、女子中学生2名。しかも女子高校生3名のうち2名は呉市、竹原市と、遠方からの応募。いずれも「土曜日の放課後なら広島市内に行けるからラジオをやりたいです」とのメッセージが。予想をはるかに上回るレスポンスに驚いた私。すぐにY君とX君に連絡し、2月の下旬に5名の応募者向けに説明会を行うことに。
2月22日、事前に確保した青少年センター3階第1会議室で行った説明会には、都合がついた2名でいずれも高校生の女の子。その後1名の方は学校の方が急に忙しくなったので、と辞退され、もう1名のAさんを"採用"。FM AKI初の女性スタッフとなったAさんは3月1日のナマナマ16時!!のDJに加わる形でデビュー。しかも彼女はご本人の申し出で本名ではなく、パーソナリティネームを名乗った、というのも、FM AKIにとって画期的なことでした。Aさんは学校やその他多忙な事情もありスタジオに毎回、というわけにはいかなかったのですが、それでも来れる時には生放送に加わっただけでなく、録音番組も担当しました。
第1次応募から1週間後には"第2次応募"が2名(いずれも女子中学生)。第1次応募で説明会に参加できなかった3名とともに、3月下旬の放送日に合わせて青少年センター音楽室(現・第1音楽室)にてラジオ放送の見学を兼ねた説明会を行いましたが、この間に4名は事情があり辞退、残る1名も説明会の時点では採用となり、4月に入り青少年センターでスタッフ会議に参加し直近の放送でデビューの予定でしたが辞退に。
辞退された方々の理由もさまざま。
"高校受験に専念しなくてはいけなくなった""進学した高校の校則が厳しく自由にやりたいことができなくなった"などさまざまでしたが、どの方も"応募して、ぜひラジオがしたい、とやる気はあったのに残念で・・・"とのメッセージばかりでした。
3月以降も応募は続き"第3次応募"では2名。1名は何と広島出身で山口県の高校で寮生活をされている女子高校生・Bさん、もう1名はアシスタント募集では初の男子高校生・C君。いずれも採用となりました。Cさんは通常はテープでの録音番組に参加、夏休み等学校が休暇になりに広島に帰省の際、青少年センターでの生放送番組にDJとして参加というスタイルでしたが、とてもこまめに録音テープを送って下さったり、時に私たち広島のスタッフに手紙を送って下さったり・・・ととても熱心な方でしたし、C君はとてもきまじめな最年少スタッフでしたが、AさんやBさんと同様、録音番組を担当しながら、時間がある時はスタジオに来て"ナマナマ16時"にDJとして参加されました。
この間に前後して、3月下旬からはY君の友人・D君もスタッフに加わり、FM AKIのスタッフは一時7名に。新メンバーの新たな番組に刺激を受けた私たち3名も担当番組をリニューアルする等、7名の個性が"化学反応"をもたらし、番組は多様化し広がりを見せました。1986年の春先から秋口にかけてのFM AKIの大きなムーブメントだったといえるでしょう。
こぼれ話・・・残念ながら辞退された応募者の方々についても触れておきたいと思います。どの方も辞退することになった理由やお詫びの言葉を丁寧につづられたのはもちろんのこと"参加できなくなったのは残念だけど、これからもFM AKIを応援しています""スタッフのみなさん、がんばって下さい!""時間があったらラジオを聴きに行きます"等のありがたいメッセージも添えられていました。竹原から応募して下さった女子高校生の方は、放送日にわざわざ竹原から青少年センターを訪ねて下さり、辞退のお詫びとお菓子を持って来て下さりました。
今のように携帯電話もメールやSNS等のツールがなかった時代とはいえ、手紙や対面できちんと辞退の理由やお詫びを伝えてくださったり、励ましのメッセージを下さったり、その後本当にラジオに遊びに来て下さった方も・・・みんな、中学生や高校生。1980年代、当時の若者はのちに流行語となる"新人類世代"と呼ばれ、世の中的には当時の中年以上の年代の方々からは"最近の若者は無気力で・・・"としばしば言われていた年代でしたが、今振り返ると、そんなことはなかったと思いますし、もちろん当時も"大人たちから新人類なんて呼ばれたくない!"と若者だった私自身、そんな大人たちの考えに憤りを感じながら青春時代を過ごしていたと思います。"無気力な若者たちばかりじゃないぜ!"と心に秘めつつ・・・。
辞退された方も含めて、いろんな見知らぬ人たちとFM AKIを通じて出会えたり、交流が持てたことはとても大きかったですし、FM AKIが青少年センターに活動拠点を移したからこそ、ラジオの活動の展開が広がっただけでなく、こうした出会いや交流もこのあとさらに広がっていったのだと思っています。
↑アシスタント募集に寄せられた手紙やはがきの一部。応募のいわゆる"志願"だけでなく、辞退のお詫びのメッセージや近況報告のお便りなどなど・・・採用となりラジオにスタッフとして当時関わって下さった方はもちろん、残念ながら辞退された方も含めて、いろんな方の支えでラジオをさせていただいていたんだなあ・・・と、これらの手紙やはがきを読んで今あらためて思っています。当時こうしたメッセージを下さった方々にあらためて感謝をしつつ、時を経た今、ラジオを聴きに来てくださっている方以外にも、レスポンスはなくとも応援して下さっている方の支えがそこにはある・・・そういった方々の存在を忘れず感謝をしながら、これからも"なごみのラジオ♪"をお届けしていきたい、と、あらためて思った次第です。
ACT12・1986年:青少年センターでのFM AKI~③ミニFM STATIONの発行開始~
2022年現在、なごみのラジオ♪の放送が終わったあと月1回発行しているのが"ミニFM-STATION"。放送当日の内容やラジオを行っている"交流スペース すきっぷ♪はうす"の様子を広く知っていただくために作成し、青少年センターの1階ロビーや中2階の自販機コーナー入口で配付、またセンターのネットにアップもしています。
このミニFM-STATIONの最新号には、タイトルの横に"Season3"との表記があります。「なんだろう?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。実は"Season3"とは3代目を意味しています。ということは、初代つまり"Season1"そして2代目"Season2"というべきミニFM-STATIONが過去存在しました。今回はそのうち初代・"Season1"のお話です。
1986年1月、FM AKIがセンターに移転しラジオ放送や様々な活動を行い少しずつ認知度が広まる中、もっと自分たちがやっているラジオのことを知っていただくために定期的に発信していこう、ということになりました。そこで1986年3月、発行を開始したのがいわゆる"Season1"となるミニFM-STATION(当時の表記は"ミニ FM STATION")。ネーミングは当時、"FM STATION"という、実在する雑誌があり、僕らはミニFMだからミニFM STATIONでいこう、ということになり、タイトルを"ミニFM STATION"としました。
現在発行している"Season3"よりも一回り小さいB5サイズ・片面のみの1枚もの。当時はパソコンやプリンター等一般家庭にはまだ普及していなかった時代、ましてや私たちは高校生でしたので業者に印刷の発注する予算などなく(というよりも当時、そんな大それた発想自体がありませんでした)当然手書き。記事の取りまとめから作成に至るまでメインで制作に携わっていたのは、とてもきれいに整った文字を書くY君。
内容は"Season3"にひけをとらないものだった、と今でも思っています。放送のエピソードやこぼれ話、スタッフ紹介コーナーや次回の放送予定・・・B5サイズの中に必要なものはしっかり網羅されていました。
"Season3"との違いはサイズや作成方法、体裁以外にもありました。
当時は月2回の放送でしたのでそれに合わせて月2回の発行でした。今よりも発行する頻度は多かったです。
逆に"Season3"と変わらないのは・・・青少年センターの1階ロビーで配付していたこと。そして、その印刷はセンターの職員さんがして下さっていた、ということ。
現在、FM AKI WAVE JACKのラジオは青少年センターの事業として行っていますが、当時のFM AKIはセンターで活動しているいちサークルとしてラジオを行っていました。どんなサークルにも協力的にバックアップをして下さるのは昔も今も変わらないセンターのスタンス。その一つがこの"Season1"の発行や配付にも表れています。
「こういっちゃん!ミニFM STATIONの最新号、印刷してロビーに置いとるよ!」「ちいと減っとったよ。読んでくれとる人がおったみたいじゃね。」・・・等々、土曜日にスタジオとして使っていた3階音楽室(現・第1音楽室)の鍵を受け取りにセンターの事務室に立ち寄ると、こんな声をかけて下さった職員さんたち。そして、3階に向かう前に必ずロビーのチラシコーナーに置かれているミニFM STATIONの最新号やバックナンバーの減り具合を確認し毎回一喜一憂していた私たち(笑)
ささやかながらも、こうした地道なPR活動も、当時の私たちスタッフのモチベーションの一つにつながっていたのだと思います。もちろんそのスピリットは2018年に"Season2"として"復刊"し、番組名の変更を行った2022年に"Season3"となった現在のミニFM-STATIONにも受け継がれています。
↑ミニFM STATION創刊号(Vol.1・1986年3月15日号・一部加工)。Vol.2以降は"放送外のうらばなし”や"スタッフ紹介コーナー""今後の放送スケジュール"等々、構成のフォーマットが固まっていきました。現在の"Season2""Season3"のまさに原点であり出発点となるのがこの"Season1"なのです。
ACT13・1986年:FM AKI 活動中止・JCRLへ
青少年センターに移転して、活動の幅が広がり交流も増えて順調に放送をしていたFM AKIでしたが、私は並行して当時趣味の一つだったフリーライセンス無線の活動も忙しくなってきていました。フリーライセンス無線とは、無線従事者の国家資格が不要で国が許可した無線機であれば無線局の免許が無くても使える無線のことで(ちなみに無線従事者の国家資格と免許が必要な無線としてよく知られているものにアマチュア無線がありますが、私が無線従事者の国家資格とアマチュア無線局の免許を取得してアマチュア無線を始めたのは1994年のことでした)、この無線機を使い見知らぬ遠くの人たちと交信を楽しむ趣味が当時盛んに行われていました。フリーライセンス無線自体は1984年から趣味として始めていましたが、いろんな人たちと交信していくうちに、1985年頃から同じ趣味を持つ人たちとの交流や実際に会って行うイベントの企画を立ち上げるようになりました。さらにその活動が雑誌(こちらは広島ローカルではなく、全国で発売される無線雑誌等)で取り上げられるようになる中、私が単独で企画を立ち上げるよりも、無線サークルとして幅広い活動をする方が良いと考えるようになり、また、無線で知り合った方々から広島のフリーライセンス無線界(?)をもっと盛り上げて欲しい、との声もいただき、無線サークルを立ち上げることにしました。実は、FM AKIを一緒に立ち上げたY君、X君はフリーライセンス無線仲間でもあったので、彼らもサークルの立ち上げに参加。さらに、青少年センターや無線で知り合った数名のメンバーも仲間に加わり、中国地方のフリーライセンス無線の活性化を目指し「JCRL」という名前の無線サークルを立ち上げ、活動拠点をFM AKIと同じ青少年センターにおき、活動開始。
このサークルの立ち上げにより、青少年センターを拠点に広島はもとより中国地方の無線仲間が集まるイベントの企画や開催、時に(先述の)出版社の無線担当の編集者から記事(イベント参加レポート)の掲載依頼があったりと、私はますますそちらの活動が多忙になってきました。そんな状況でFM AKI とJCRLの両立は困難となり、FM AKIは活動中止とし、JCRLに活動をシフト(集中)させることになりました。
これでミニFMラジオ放送は終結した・・・かに思えましたが、実はこのJCRLの活動が、図らずも5年後WAVE JACKとして再び青少年センターにてミニFMラジオを復活させるきっかけとなることに。しかもFM AKI時代よりもさらにバージョンアップしたラジオ局として復活を果たすことになるのです。
何がきっかけでどんな流れで復活したのか?
WAVE JACKの放送はどうバージョンアップしていたのか?
いよいよHISTORYはWAVE JACK編へ突入、お楽しみに!
おまけの話・・・JCRLでも1回限りのFMラジオ放送、しかも「喫茶もぐら」とコラボ!?
JCRLとしての活動にシフトしても引き続き、青少年センターでの登録サークルとしてセンターの様々な活動に参加したり関わったりしていました。中でもセンターの一大イベント・ヤングフェスタにはJCRLとして1986年から1990年まで毎年参加。お客様にフリーライセンス無線の交信体験をしていただくコーナーやサークルメンバーのフリーライセンス無線やアマチュア無線の通信(交信)のオペレートを見ていただくコーナー、海外のラジオ放送のリスニングコーナー等、サークルの活動紹介とともに行いましたが、1回だけミニFMラジオ放送を行いました。
1990年の「ヤングフェスタ'90」。この年はメンバーから「ミニFMラジオの生放送がやりたい」との声があがり、「じゃあ久しぶりに放送やろう!」と盛り上がり、JCRLとしてはあとにも先にも1回限りの公開生放送を実施。無線機を使っての生中継で館内各コーナーのインタビューや音楽をかける番組を行いました。
放送を行った場所はセンター2階の現・美術室でしたが、実は隣接する第3会議室では「喫茶もぐら」がカフェを行っていました。「喫茶もぐら」は言うまでもなく「もぐらカフェ」(2014年~2022年)そして今の「すきっぷ♪はうす」のルーツ。ちなみにこの日は(先述の)生中継や、放送時間中に「喫茶もぐら」のスタッフの人たちと行き来や交流をしていた記憶があります。
丁度今から30年以上前のヤングフェスタでの出来事。当時既にミニFMラジオ放送と喫茶もぐらが事実上の「コラボ」をしていたとは・・・感慨深いものがあります。
画像上:「ヤングフェスタ'90」リーフレットの表紙(一部加工)。当時ヤングフェスタは11月に開催されていました。
画像下:リーフレットの会場図の一部(一部加工)。赤丸に「ミニFM放送局 J.C.R.L.」と「喫茶"もぐら"B.J.CLUB」の文字が見えます。また、見取り図ではいわゆる「おとなりさん同士」で当日活動をしていたことがわかります。まさに元祖・なごみのラジオ♪&もぐらカフェかも!?