HISTORY2(WAVEJACK)

ACT1・1990~1991年:ラジオ本格再開に向けて

1986年に立ち上げた無線サークル・JCRLの活動が忙しくなりそちらにシフトする形で1987年に活動を停止したFM AKIでしたが、メンバーのうち代表の私とY君、X君はそのままJCRLのメンバーに移行。さらに新メンバーとしてD君、T君、Mさん、Yさんが加わりました。

JCRLの活動の詳細については割愛しますが、1度だけミニFMラジオ放送を行いました。それが(”FM AKI編・ACT13にて取り上げた)青少年センター主催イベント”ヤングフェスタ1990"での公開生放送。

1990年の夏のある日の青少年センター3階第2会議室。当時月1回日曜日の午後に行っていたJCRLの定例ミーティングでの議題は”今年のヤングフェスタで何をするか?”

例年通りの活動紹介や無線の公開運用等々、意見がある中

「久しぶりにここ(青少年センター)でミニFM(ラジオ放送)をやりませんか。オレやりたいんですよ!」

そう笑顔で切り出したのは、JCRLになってからメンバーとなったD君。彼は自宅でミニFM放送をやっているのはメンバーも知っていました。JCRLの活動中時々

「いつかみなさんがやってたFM AKIみたいなミニFMラジオとか、やってみたいんですよ~。」と言っていたのを思い出しました。

私とX君は「そうだね。毎年活動紹介や(無線の)公開運用だけじゃつまらない気がするね。じゃあ久々にやってみようか。」となり、放送機材の確認や番組内容等話し合いや準備をすすめ、1990年11月18日”ヤングフェスタ'90 JCRLミニFMラジオ公開生放送"として1日限りの"復活"を果たしました。

この1日限りの"復活"から興奮冷めやらぬ1990年末のある日のミーティング。口火を切ったのはやはりD君。

「ヤングフェスタの生放送、楽しかったです。やっぱりみんなの前でラジオをするっていいっすね~。ミニFMがまたできたらいいな~、と思うんですが、やっぱり無理っすかね・・・。」

このD君の思い、実は彼だけではなく私も同じことをちらっと思っていました。というのも、私もヤングフェスタでの久々のラジオ放送で"無線もいいけどラジオ放送もやっぱり楽しいなあ"と感じていて、可能であれば不定期でもできたらいいとも思ってはいましたが、既に無線サークルとして広島はもとより中国地方でそれなりに名を知られ、アクティブに活動している状況で、しかもそのサークルの代表をしていた私の個人的な思いだけで活動を増やすべきではないと思っていたので、敢えて自分から口にしたことはありませんでした。

ミーティングに参加していたX君も

「やってもいいんじゃないですかね~。」と前向きな発言。特に異論がないことから、復活に向けて可能性を模索することから始めてみよう、ということになりました。

とはいえ、だらだらと模索するのではなく、ある程度こんな基本を決めて動くことにしました。

①JCRLとは別にサークルを立ち上げるのではなく、当面はJCRLの活動の一つとして動いていく。無線の活動とラジオ局の復活への活動を分離して行う方が良いかどうかは今後の活動状況を見ながら考えていく。なお、ラジオも無線の一種でありJCRLの活動の趣旨に反することはないので問題はない。

②このためこれまでの活動と並行して活動していくが、ラジオ放送については有志(つまりラジオをやりたい人)でのメンバー構成とする。

③最終目標は定期放送だが、早期の定期放送を目標とするのではなくまずはプレ放送の実施を目標とする。また、定期放送が難しいようであればイベント放送のような不定期での放送でも良い、ぐらい幅を持たせて考えていく。

特に③は重要でした。

FM AKIの頃、メンバー構成は全員が中学・高校生だったこともあり活動に時間を割くことも比較的容易でしたが、数年経っていてみんなその分年齢を重ねていて(当たり前ですが・・・・(笑))メンバーは大学生か社会人ばかりとなっていました。FM AKIの頃と比べてみんなそれぞれ忙しく、私も含めラジオを中心に注力、とはいかない状況となっていたので、とにかく無理のない形で動いてみよう、ということになりました。

とはいえ、活動の目安となる目標時期は一応設定しました。

〇プレ放送実施時期の目標は3月、本放送(初回)の実施時期の目標を4月とする(もちろん見直しもあり)。

こうして1991年の年明け、"ミニFMラジオ復活"に向けて静かに動き始めたのでした・・・。

↑ミニFMラジオ局復活に向けてのJCRLミーティングのひとコマ(1991年・青少年センター第2会議室)。画像左から背中を向けているのがD君、真ん中にいるのが私で右端はX君。(黒板の記載から)この日はプレ放送に向けた放送機材やタイムテーブルについての検討をしていたようです。

ACT2・1991年:新ラジオ局名は”WAVE JACK”

3月のプレ放送に向けて準備が始まりましたが、実は3月はもう一つ大きなイベントの開催も控えていました。無線サークル・JCRL主催のイベント「第3回4エリア(中国地方)CB'erの集い」という、中国地方のフリーライセンス無線家が集まるイベントの準備も並行して進めていました。こちらは3月24日(日)に青少年センターで行うことが既に決まっていて、某雑誌にもイベントの告知が掲載されていました。このため、都合2つのイベントの準備で年明けから青少年センターで頻繁にミーティングを行っていました(ついでに言うと、私はセンター主催のレクリエーションリーダー養成研修会や4月開催予定の他の大きなイベントの実行委員会にも関わっていたので、センターにはほぼ毎日に近いぐらい出入りしていました)。

こうしたことから、プレ放送日時については無線のイベントの開催と連続の開催は避けよう、ということで前後の週である3月16日(土)、30日(土)の2回を候補としましたが、放送場所である音楽練習室(現・第2音楽室)が確保できたため30日に、放送時間は18時30分~21時に決定。ラジオの周波数は85.0MHzに決定。これは当時D君が所有していたFM送信機(トランスミッター)を使うことになり(ちなみにFM AKIの頃はY君所有の送信機を使っていましたが、Y君は大学生で当時県外にいたため、帰省時タイミングが合えば活動に参加、といった状況でしたし、私がエフエム白島の時に使っていた送信機は自宅で行方不明になっていました)、その周波数をそのまま使うことにしました。こうして、プレ放送に向けていろいろと決まっていきました。

そんな中、もう一つ決定しなければいけないことが・・・それはラジオ局名。

私は当初、かつての局名であるFM AKIでもいいかな~、ぐらいにしか思っていなかったのですが、ここでもD君のひらめきが・・・。

「WAVE JACK、ってのどうですか?WAVEは電波だから電波ジャックみたいですが・・・」

私は心の中で驚きました。放送局名は、たとえば〇〇放送、〇〇ラジオ、ラジオ〇〇とか、FMラジオ局なら〇〇FMまたはFM〇〇というイメージだったので、WAVE JACKと聞いた瞬間は”放送”も”ラジオ”も”FM”もどこにもないネーミングに若干の違和感を感じ、また、電波ジャック=電波を乗っ取るという意味合いはどうだろう、とも思いました。

ただ同時に何か新鮮な気持ちになったのも確かでした。そして、D君の自分にない発想に"そんな局名もありかも・・・"と思い始めました。ジャック=JACKは乗っ取りというネガティブな意味だけでなく、高めるといった意味もあるし、ちょいワルなネーミングもいいかも・・・と思い始め、次の瞬間にはD君に

「WAVE JACK!それでいこう!」とOKを出しました。

"みなさまお聴きのラジオはウェーブジャックです"と、長い※ジャンクション(※局名告知とも言い、放送時間にラジオ局名をアナウンスすること)に慣れなきゃいけないなあ、とぼんやり思いつつも、既成概念をぶち破るD君の発想やひらめきにのっかってみよう、とわくわくした私なのでした。

こうして様々な準備を整え、ついにプレ放送の3月30日を迎えることになります・・・。

↑ラジオ局名がWAVE JACKに決まり、局ロゴを検討した時に候補として挙がったロゴ3種。D君からはスタイリッシュな上の2種類の図案を、私からは一番下の図案をそれぞれアイデアとして出し合い、最終的には一番下のロゴに決定。

D君は当時まだまだそこまで普及していなかった家庭用のワープロを以前から持っていて、私は上の2種類のロゴを初めて見た時に「プロっぽい!こんな本格的なロゴを作れるんだ、すごいな~!」とすごく感動しました。というのも、当時はまだパソコンは一般家庭にはそこまで普及しておらず、ワープロもようやく安価になりつつあるぐらいの世の中で、今みたいに家で手軽に自由自在にロゴを作りマイプリンターで印刷、という状況ではなかったのです。このため、様々な媒体でロゴを使う時に定規を使い手書きでもすぐ書く(描く)ことができることが決め手となりました。

イメージカラーはFM AKIのレッドは踏襲せず、WAVE JACKはブルーとしたのは私なりにですが、既成概念を破りたかったからなのかも知れません。

言うまでもなく、このロゴとカラーはFM AKIとともに、現在のFM AKI WAVE JACKのロゴにそのまま使っています。実は2018年のラジオ再開にあたり、全く別のラジオ局名にしてロゴのカラーもかつてのレッド(FM AKI)とブルー(WAVE JACK)の融合という意味でパープル(紫)もいいかも、と思ったりもしたのですが、既定路線を重視したわけではなく、復活にあたってはあくまでもFM AKIとWAVE JACKのスピリットがベースでありそこにはこだわっていきたい、との思いから局名はかつての局名を合わせたものとし、ロゴの字体とカラーも当時のものを敢えて踏襲しています。

ACT3・1991年3月30日:復活前プレ放送

「お聴きのラジオはWAVE JACKです。周波数85.0MHz(メガヘルツ)で広島市青少年センターからプレ放送を開始します・・・」

1991年3月30日(土)17:59頃、場所は青少年センター地下音楽練習室(現・第2音楽室)スタジオ。WAVE JACKとして私の局名告知による、”第一声"が電波にのりました。

トップバッターはWAVE JACKからの新メンバーD君による番組"M-WAVE"。

18:30からは私の担当番組"ハロー紙屋町TOWN2"・・・これはFM AKI時代からタイトルも内容も踏襲した番組でした。

19:00からはX君も加わり、3人での生放送番組"WJ-60TIMES"がスタート。この時間前後から、スタジオの窓ガラス越しに、"喫茶もぐら"のスタッフの人たちや"もぐら"に立ち寄りお茶をしていた人たちが行きかう姿が見え始めました。当時、地下ロビーにはカウンターがあり、毎日夕方になるとセンター利用者の運営による"喫茶もぐら"がここでオープンしていました。私は"もぐら"のスタッフの人に「今音楽練習室をスタジオにしてミニFMのラジオをやっているんですけど、ここにラジオを置かせてもらってもいいですか?」とお願いしました。すると「いいよ、こういっちゃん!ここ(=カウンター)に置きんさい。聴いたげるけえ~」と快く応じて下さった"喫茶もぐら"スタッフの人。ガラス越しに手を振ってくれる人、「ラジオ、頑張ってね!」と声をかけて下さる人たち(防音室なので声は聞こえませんでしたが)・・・ラジオを聴いてくれているんだ、という喜びとともにノリノリでDJトークが炸裂する中(!?)・・・生放送は結局2時間行い、21:00に無事放送は終了。

「無事終わったね!」「やりとげましたね~」・・・久しぶりの放送をやりとげ喜び合った3人。加えて「ラジオ、お疲れ様」「楽しかったよ!」と、"もぐら"のスタッフの人たちや"もぐら"に立ち寄りラジオを聴いて下さった人たちからのねぎらいの言葉も嬉しかったです。

この経験が復活への大きな自信となりました。そしていよいよ4月13日の本放送へ!


↑WAVE JACKプレ放送(1991.3.30)の一コマ。当時22歳の私。画像では斜に構えているように見えますがそうではなく(笑)、DJ用のテーブルの準備が間に合わず、音楽練習室にあったローテーブルをまにあわせのDJブースとして使ったため、腰をかがめながらのDJスタイルとなりました。機材も小型のラジカセやミニマイクをつないでの簡易なしつらえでいかにも"プレ放送"という雰囲気が伝わってきませんか?(笑)

(※画像にはドリンク類が写っていますが、現在第2音楽室での飲食は禁止されています。)

↓WAVE JACK開局&&プレ放送の告知チラシ(画像上)とプレ放送当時のタイムテーブル(画像下)(※一部修正)。

 作成者は私(おはずかしい・・・)。 

ACT4・WAVE JACKの放送スタイル

1991年4月13日。FM AKIとしての放送停止から4年。ついに新生WAVE JACKとしてラジオ放送の復活を果たしました。

基本スタッフ(DJ)は、私とD君それにX君。(以前、HISTORY1(FM AKI)でもご紹介しましたが)FM AKI時代は開局当初は高校生のみのスタッフでしたが、WAVE JACKでは基本スタッフは社会人か大学生。このことがFM AKIとはまた違った放送スタイルの広がりへとつながりました。

まず放送する曜日や時間ですが、月2回の土曜日はそのままでしたが、放送時間はFM AKI時代の午後(2時30分~5時)から夜間(18時~21時)に変更。これは、メンバーが日中仕事や学業(バイト含む(笑))に忙しかったため夕方以降が集まりやすいという事情からでした。

そして、放送場所はFM AKI時代の3階音楽室(現:第1音楽室)から地下音楽練習室(現:第2音楽室)に変更。これは、当時、土曜日の夜の青少年センターは3階の音楽室の利用が多く音楽練習室は比較的空いていたため安定して部屋の確保ができたことや、スタッフは少人数のため音楽室ほど広くなくても十分放送ができること、そしてこれが一番の理由だったのですが、FM AKI時代よりも多くの人たちに聴いてもらえそうな環境が期待できたこと。

ACT3でもご紹介しましたが、当時の青少年センターの地下では連日夕方になると音楽練習室前の空間に"喫茶もぐら"がオープンしていました。"喫茶"とは言っても街角にある喫茶店のような仕切られた店舗形式ではなく、だだっ広い空間にカウンターと椅子が数脚並べてある、誰でも気軽に立ち寄れるフリースペース。スタッフの人に注文してワンコインでコーヒーや紅茶を飲んだり同じくワンコインでストックしてある袋インスタントラーメンを注文して食べる人、仲間とぶらっと立ち寄りしゃべってる人、そこで出会った見ず知らずの人と交流する人、おもむろにギターの弾き語りをする人・・・いわば"若者が健全にたむろできる居場所"、それが"喫茶もぐら"でした。特に週末の"もぐら"は多くの人でにぎわっていました。この近くでラジオをするということは必然的に多くの人たちの目に(耳に(笑))とまることになります。つまり放送すること自体がWAVE JACKのPRになるというメリットにつながりました。

さらに"もぐら"の運営スタッフの人たちとは既に様々な形で交流をしていたので、お互いの活動のPRをしあったり、コラボレーション企画ができるなど、FM AKI時代とは違う放送スタイルが増えていきました。その1つが、"イベント放送"と称して時々音楽練習室を飛び出して"もぐら"に臨時DJブースを構えて行った公開生放送。オープンな場所で人が行きかう様子を眺めながらのDJは、防音ガラス越しの音楽練習室とは違い、リアルに人とのやりとりやレスポンスもあり、また何が起こるかわからない面白さもありでとても楽しいものとなりました。

実は、FM AKI時代に行っていたセンター外(ハノーバー庭園近辺)に飛び出しての屋外生インタビューは、WAVE JACKになってからは放送時間である夜間は屋外の人通りが少ないことと、当時使っていた中継用無線機が地下では電波を拾いにくいということから不可能となっていましたが、夜間そして地下でのラジオ放送は(上記の)そのウイークポイントをカバーしても余りあるほどでした。

次回からは、そんなWAVE JACK時代の"イベント放送"についてご紹介していきます。


↑WAVE JACKのDJブース(1991年7月)。通常は地下・音楽練習室(現・第2音楽室)の窓越しに放送機材をセッティングし、室外の人たちから見えるようにラジオ放送をしていました。窓ガラスをよく見てみると、白い食器棚や丸椅子がひっくり返した状態で並べて置かれているのが見えると思いますが、これは当時の"喫茶もぐら"です。撮影した時間は夕方で"喫茶もぐら"がオープンする前の時間帯でしたが、オープンすると、この窓越しに"もぐら"に立ち寄る人たちを眺めたり時に窓越しにみなさんとコミュニケーションを図りながらラジオ放送をするのが楽しかったです。多くの人たちの注目を浴びながらのラジオ放送はとても楽しく、その楽しさを今ももちろん感じながらお届けしています。

ACT5・イベント放送あれこれ

前回お伝えしたとおり、WAVE JACKの頃は、FM AKI時代以上にイベント放送に力を入れていました。

特に、野外での生放送といったイベント放送はFM AKI時代はほとんどありませんでした(せいぜい生放送中にスタジオを飛び出して街行く人に生インタビューという程度)。FM AKI時代はメンバーが全員高校生、機材も手持ちのオーディオ機器

ということもあり、思い切った放送をする設備が不十分だったことや、そもそもイベント放送を行う機会を得ることがなかったという、いくつかの理由が挙げられます。

この反動、というわけではありませんが、WAVE JACKとなってからは、イベント放送を頻繁に行いました。メンバーが大学生や社会人となり個人の行動の自由度が増したこと、ちょっとだけ放送設備が充実したこと、それから青少年センターのイベントとのタイアップ等、イベント放送をする機会が増えたこと・・・何よりこうしたチャンスをのがさないという、私を含めたメンバーのモチベーションも今思えば大きな原動力になっていた気がします。

WAVE JACKはイベント放送中心の活動にシフトすることになり、定期放送は徐々に縮小しF.O.(フェードアウト)していくことになります。

次回からはそんないくつかのイベント放送を、当時の記録や画像と私の記憶をたどりながら(私の記憶の方は曖昧かも知れませんが・・・(笑))振り返ってみることにします。

↑WAVE JACK時代に行った主なイベント放送。長時間放送あり、野外イベント放送あり、オールナイト放送あり・・・やりたい放題だったあの頃。

どうせやるなら余計なこと考えずに徹底的にやってみよう! 不安等気にしても仕方がない それよか楽しんじゃおう! やってみたあとで考えりゃいい!・・・当時22歳~24歳だった私は、”怖いもの知らず”で”むかうところ敵なし”ぐらいの感覚でした。

ただ、一方でもう一つ思っていたこと・・・周りからご縁や機会、チャンスをいただているのは当たり前のことではない、だからやりたいことをすすめるにあたっては周りの人たちや環境への感謝を絶対に忘れちゃいけない、自分1人の力で何でもできるとか思いあがってはいけない、とにかくいつも周囲への感謝と謙虚さを忘れないように・・・若くてまだまだ未熟ではありましたが、私なりに絶えずそんなことを心たずさえながらいろんなことをさせていただいていた気がします。 

ACT6・ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU

(@国際交流キャンプ・BIG JAMBOREE オールナイト生放送)その1

1991年7月6日~7日、広島市青少年野外活動センターキャンプ場で行われた国際交流キャンプ"BIG JAMBOREE"。総勢約200名(内外国人60名)の若者たちが集まって交流を深めるイベントでした。昼間はオリエンテーリング、食事は参加された留学生の方々の各国の料理を作って食べたり、夜はキャンプファイヤーや星空を眺めたり・・・などなどさまざまなイベントが繰り広げられました。私はこのイベントの実行委員として準備段階から携わっていて、当日もスタッフとして動いていました。

その中の22時から行われた「ミステリアスプログラム」タイム。この時間はグランドでミッドナイトシアターが行われたり、"BJ-CLUB"というカフェバーが夜通し行われる等、眠ることを知らない若者たちが飲んだり語ったり歌ったり踊ったり・・・の交流を繰り広げていました。そのカフェバーの近くで23時から翌朝7時までオールナイトでラジオの生放送を行いました。

DJブースをしつらえ、ラジカセやマイク、ミキサーなどの機材をセッティングしました。WAVE JACKとしての放送でしたが、WAVE JACKのメンバーとして参加したのは私1人。これに実行委員からS君とアシスタントのPさんに放送スタッフに加わってもらいました。とはいえ、ラジオブースの仕切りや全体の統括、その場その場での臨機応変な判断と対応を当然私が行いながらDJもしながらのラジオ放送。これはほとんど初めての経験。

企画段階では、果たして1人で8時間も走り切ることができるのか、と一瞬だけ思いましたが、次の一瞬にはいつものごとく”まあ、何とかなるさ”と、特に台本も作らず、時間ごとのコーナー決めとトークの穴埋め用の音源のカセットテープ数本だけ準備して、8時間を全てアドリブのフリートークでいくことにしました。

話すネタがなくなったら音楽をかければいいし、参加者が200名ぐらいいるのだからインタビューをすればいいし、目の前の"BJ-CLUB"にマイクを持ってゲリラ実況生中継もありだし、逆にラジオで呼びかけて参加者にDJブースに来てもらって外国人の方に母国語で語ってもらったり、酔っぱらった参加者に飛び入りでPRしてもらうのもよし。いざとなればギターの弾き語りでもすればいいし(当時私はちょこっとだけギターをかじっていました)、素材はいくらでもある。何とでもなるなる。とにかくミステリアスプログラムの盛り上げ役としてハプニングも楽しみながら8時間のライブDJを楽しむぞ!

どうなるだろう?という不安よりも、どんなことが起きるんだろう、というワクワク感いっぱいで当日を迎えた私でした。

ちなみに当日の放送のタイムテーブルはこんな感じでした

 22:00~23:00(※実際には23:00~0:00) OPENING ON AIR~さぁ行くぞぉ!~

 0:00~2:00 MIDNIGHT ON AIR・1~夜はこれから~

 3:00~5:00 MIDNIGHT ON AIR・2~夜明けまでブッとばせ!~

 6:00~7:00 ENDING ON AIR~おはよう  USHIZU~

各コーナーの間に1時間のインターバルタイムを設定しましたが、これは放送を休止するのではなく、BGMを流しながら放送機器の点検や次コーナーの準備、放送スタッフの打ち合わせや会場内各コーナーの情報収集や取材の時間にあてました。

ラジオは、単にイベントの盛り上がりを伝えるだけではなく、ミステリアスタイムにて、そこここで行われているイベントの情報提供や呼びかけ、告知などを伝える機能も担っていました。 

次回から、”ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU”について当日の様子を少しご紹介します。

↑国際交流キャンプ”BIG JAMBOREE"リーフレットより抜粋。赤枠がWAVE JACKの放送プログラムです。

 ちなみに本文でも紹介した"BJ-CLUB YAKATSU"、普段は青少年センター地下でWAVE JACKとおとなりさんである"喫茶もぐら"のスタッフの人たちが夜通し運営するカフェバー。22時から3時はバーとしてアルコールの提供を中心に、3時以降はカフェとしてコーヒーや紅茶を中心に提供、とのことでした。

この日もおとなりさんということもあり、準備中、普段は"喫茶もぐら"の店長さんでもある、BJ-CLUBのマスターのOさんと2人して「お互いに寝ないでオールやりきりましょう!」と、男同士で固く誓い合いました。


ACT7・ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU
(@国際交流キャンプ・BIG JAMBOREE オールナイト生放送)その2

<23:00~0:00 OPENING ON AIR~さあ、いくぞぉ!~>

「OPENING ON AIR~~! さあいくぞぉぉぉぉ~っ!!・・・」1991年7月6日(土)23:00、前日までどしゃ降りだった雨が上がり、やや霧にけむる広島市青少年野外活動センター(通称"野活")のテント前広場DJブースから第一声を放ち、翌朝7時までの8時間の生放送がスタート。

 この時間のDJは私(DJこういっちゃん)が担当。翌朝までの放送スケジュールやFM AKI WAVE JACKの紹介、DJブースの前で夜が深まりつつあるとともに盛り上がっていたカフェバー"BJ-CLUB"や隣の野外広場で行われていた"MIDNIGHT THEATER"の様子の紹介からスタート。

 DJブースの私の方に手を振って下さる人たちに「あっ、手を振ってくれてどうもありがとうございま~す!」とこたえたり、差し入れのコーヒーを持って来て下さったBJ-CLUBの女性スタッフの方に「せっかくなんで会場のみなさんに何か一言どうぞ!」とむちゃぶりでマイクを向けてしゃべっていただいたり、通りかかったBJ-CLUBの店長・Oさんと漫才のようなかけあいでやりとりしながらBJ-CLUBのPRをしたり、そうかと思えばBIG JAMBOREEにちなんで"お金で買えない価値のある贈り物"の話や"人と人との交わりや交流”というちょっと真面目なテーマで少し語ったり・・・。オープニングということもあり、ややハイテンションな私のMCと、それを中和させるために敢えてスローテンポな曲を合間にかけ、そして各コーナーの情報提供も織り交ぜながら、あっという間に持ち時間の午前0時に。

「1時間お付き合いいただきありがとうございました!・・・夜は今からですから皆さん飛ばしすぎないように盛り上がって下さいね!」

<0:00~1:00 MIDNIGHIT ON AIR・1~夜はこれから・第1部~>

 本来なら0時から1時まではインターバル放送時間としてBGMを流し、この間に私は休憩がてら1時から始まるこのコーナーの準備に入る予定でしたが、DJスタッフとして参加していたS君が「会場がめちゃくちゃ盛り上がってるんで、そのまま(放送を)やっちゃいましょうよ~!」とのあおりにのって、私は何の段取りもない中で流れのまま始めることに・・・。

「・・・何の段取りもなくマイクを握っています。やばいですね~この状況は。準備をして1時から始めるつもりが、全く白紙の状態で始めることになりました。横でね、スタッフのS君が"やるんだ!やるんだ!がんばるんだ!"みたいな感じでえらく燃えてるんで、やらないわけにはいかないな。俺がやらねば誰がやる!そんな感じで1時間がんばりますのでお付き合いを・・・」

お酒がすすんで盛り上がっているBIG JAMBOREE参加者の若者たちがマイクを握る"一言ぶちかましコーナー"やイベントの実行委員のカメラ担当男性スタッフ・F君への生インタビュー、引き続き隣りで行われていたMIDNIGHT THEATERで上映中のアニメの作品紹介、前日夜中まで続いたBIG JAMBOREEのスタッフの最終打ち合わせの時の裏話・・・等々。会場のヒートアップとともに私のMCもOPENING ONAIR以上にハイテンション&ハイテンポでの進行でした。やはりあっという間に午前1時をむかえました。

「第2部は僕ががんばります!ぜひ聞いて下さい!」と次のコーナーのS君がコールし、彼にMCをバトンタッチしつつ、このコーナーを締めくくりました。

<1:00~2:00 MIDNIGHT ON AIR・1~夜はこれから・第2部~>

「みなさんこんばんは。七夕の夜、今日はあいにくの曇り空で天の川、ミルキーウェイは見えませんでしたが、皆さんそれぞれの夜をお過ごしになっていることと思います。みなさんの夜の素敵な演出になればなあと思って精一杯の努力をさせていただきたいと思っています。1時間のお付き合いをよろしくお願いします・・・。」

それまでの私のハイテンションな放送から一転、ゆったりとした曲をバックにS君の流れるようなMCで始まった第2部。音楽中心の構成で曲を流すだけでなく、曲にまつわるエピソードや歌詞の解説を織り交ぜながらのS君のMCは、夜が更けてDJブース近くで激しく繰り広げられていたダンスパーティーやギターの生ライブ等、盛り上がりがピークに達していたBIG JAMBOREEの会場の、まさに"一服の清涼剤"。また、夜早い時間に行われたキャンプファイヤーのリーダースタッフへのインタビュー、ダンスパーティーや生ライブの実況中継などの情報発信から自分や知人のクスリと笑える面白エピソード、酔っ払ってDJブースに乱入しよくわからないことを絶叫して立ち去るBIG JAMBOREEの参加者を軽くいなすトーク…マルチなプレーで進行していたS君。彼は WAVE JACKのメンバーではなく、BIG JAMBOREEの実行委員としてラジオスタッフに参加をしていました。つまり彼はラジオDJ初体験だったのですが、それを全く感じさせないほど落ち着いていたMCに、その傍らで次のコーナーの準備をしていた私は「S君、初めてとは思えないなあ、すごいなあ…」と感動しながら耳を傾けていました。

午前2時をむかえ、S君の持ち時間は終了。1時間のインターバルをはさみ、3時から朝にかけて再登場する私とDJ初体験のPさんという、WAVE JACK初の男女ダブルDJにバトンタッチ。オールナイト生放送は後半に突入・・・。                        

                                               (次回に続く)

ACT8・ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU

(@国際交流キャンプ・BIG JAMBOREE オールナイト生放送)その3

<3:00~5:00 MIDNIGHT ON AIR・2~夜明けまでブッとばせ!>

「みなさん、起きてますか~。私はまだ起きてますよ~。」ハスキーなPさんの声。午前3時、ややスローテンポなB.G.Mをバックにスタートしましたが、会場はヒートアップ状態。ダンスパーティーを繰り広げる人たち、はたまたギターのライブに盛り上がる人たち、熱く語り合う人たち、酔っ払って大騒ぎをする人たち、雨上がりの霧にけむる周囲の山々を静かに眺める人たち・・・国際交流キャンプということで、様々な国の若者達(&元若者達)が入り乱れてあちらこちらで盛り上がったり、思い思いに楽しまれていました。

この時間のDJは私(こういっちゃん)とPさんのダブルMC。Pさんは私より少し年下の女性で、青少年センターで普段から一緒に活動している仲間の一人でした。DJは初体験でしたが、普段から明るくはきはきしたハスキーボイス、そしていつも機転が利き仕切りも上手い彼女とのDJは、それこそ台本なしでアドリブの掛け合いでいけると私は思っていましたが、まさにその通りの展開に。

まずはPさんと私でBIG JAMBOREE初日の振り返りトークでスタート。続いて盛り上がる会場の様子の実況に。「BJ-CLUBの方はスタッフが徐々に片付けを始めてますね~。実はですね、テントの方に行きますと2ショットのすごいはカップルが山ほどいるんですよね~。驚いてしまいました。」とのPさんのコメントに「やっぱり予想通りできましたね~。」と切り返す私。DJの私たちにシャッターを切るスタッフに「撮ってもらってありがとうございま~す!写真ができたら下さいね!」と私が声をかけると「テレビじゃなんだってば!」とそのスタッフに突っ込みを入れるPさん。盛り上がる参加者をつかまえての爆笑インタビューや、会場スタッフへのインタビュー、そして前コーナーでしっとりと落ち着いた語り口調でDJをしていたSさんはDJタイムとは打って変わってハイテンションで会場内でギャグを飛ばしながら大騒ぎ・・・そんな中でPさんと私はこうした会場の雰囲気をバックに楽しみながらのかけあいで、盛り上がる会場の雰囲気をリアルタイムに伝えました。

3時30分。「早朝登山を始めます。参加される方は本部テント前にお集まりください!」BIG JAMBOREEの実行委員長・Uさんがラジオにて発声。登山先はこの近くにある標高約680メートルの牛頭山(うしずやま)。ぼちぼちと集まる登山参加者の様子をみながら「みなさんのこの盛り上がりのまま山に上がってしまうかと思うとのはちょっと恐ろしいですけど・・・」とのPさんに「みなさんが山に登るかどうかはどうでしょうかね~」と私。ところが登山への参加希望者がどんどん増え始め、引率スタッフがその対応にてんてこまいに。すると「スタッフの話によると、4人ぐらいで登山するつもりだったそうですよ。」とちょっとした裏話を伝えつつ「今(スタッフが)人数調整中で時間がかかっていますが、出発前に人数を確認しないと大変なことになりますので参加の人はしばらくお待ちください。」と注意を促すなど機転を利かせたPさん。結局参加人数が43名に膨れ上がった登山隊は4時10分に出発。「気をつけて行ってらっしゃ~い!がんばってね~!!」「F君、明日は仕事だろ~!!気をつけて!」「Uさ~ん(←登山隊を引率する青少年センター職員さんの名)遅れないようにね~」と2人して声援を送りました。

登山の参加者が出発し、会場が少し静かに落ち着いた4時20分。

「ちょっとここでギターを借りてきたんで、1曲弾いてみようかと・・・」と私は急遽弾き語りのミニミニLIVEを行いました。曲は吉田拓郎の「ともだち」。楽譜がなかったため頭でうろ覚えだったコードを思い出しながら、マイクスタンドがなかったため、BIGJAMBOREEの元気な女性スタッフ・Iさんがマイクを握って向けて下さる中、ミニミニLIVEは終了。

このほかこの時間帯では、参加者の方々からのリクエスト曲も沢山かけました。

「MIDNIGHT ON AIR ・2ということでやってまいりましたが、3時から5時まで一時はどうなることかと思いましたが、どうにかこうにか無事に2時間お届けすることができました。お聴きいただきありがとうございました。」夜が白々と明けはじめ、野鳥のさえずりが聞こえ始める中、また、頑張って起きて聴いて下さっていたリスナーの拍手の中、2時間ぶっとおしで放送したこのコーナーは終了。5時7分のことでした。ラジオは再びインターバル放送に突入、ところがこの20分後、放送を再開することに・・・。

<5:29 臨時生放送~牛頭山山頂との生中継~>

5時25分頃、登山隊引率者である青少年センターの職員・Uさんと無線にて連絡を取り合っていた同じくセンター職員のOさんより、登山隊が無事に山頂に到着した、との一報が。

この時間帯はインターバル放送中でしたが、急遽普通のラジオ放送に切り替えました。

「登山に行かれた皆さんが、無事牛頭山頂上に着いたそうです!ヒュ~~~!!」と切り出した私はマイクをOさんに向け、OさんとUさんの無線でのやりとりを生中継でラジオにてお届けしました。

「今牛頭山の山頂に到着しました・・・全員元気に上って雲海を見ています・・・」とUさん。

「雲海の様子はどうですか?」とのOさんの問いに「かなり低いところに雲があります。空が曇っているので海という感じではありませんが、まさに雲の下にみなさんはいらっしゃるんだと思います。富士山ではありませんけども、頭を雲の上に出し、といった状況です。私は詩人でしょうか?」というUさんのコメントにDJブース近くで聴いていた人たちは大爆笑。「誰が詩人じゃあ、早く帰ってこ~い」とPさんが笑顔で突っ込みを入れる場面も。

「(登山隊が)無事に着いたということで、緊急に実況中継を入れました。お聴きのラジオはWAVE JACK、85.0MHzでお届けしています。只今時刻は5時31分です・・・」と私のステーションコールで2分ちょっとの臨時放送は終了。

放送はインターバルに戻り、このあと、いよいよ6時から、このオールナイトラジオ放送のグランドフィナーレへ・・・。

                                             (次回に続く)


↑1991.7.7早朝4:20頃。DJブースにて生放送中にギターの弾き語りをする私。曲は吉田拓郎の「ともだち」。ちなみにラジオの生放送で弾き語りをしたのはこの時が初めてだと思います。そういう意味では、現在「なごみのラジオ♪」でみなさんにお届けしている「ウクレレミニミニLIVE♪」の原点かも知れません・・・(笑)

ACT9・ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU
(@国際交流キャンプ・BIG JAMBOREE オールナイト生放送)その4

<6:00~7:00 ENDING ON AIR~おはようUSHIZU~>

 「おはようございます、といってもきっとみなさん寝てない方もいらっしゃると思いますが、おはようございます・・・」曇り空、霧にけむる朝6時から始まったこのコーナーは、MIDNIGHT ON AIRに続いてPさんと私のダブルDJ。

私「(野活は)すごいですね、霧の水滴が広がってなかなか綺麗ですね」

Pさん「(前日のキャンプファイヤーの)けむりというのもありますが霧と混じってますね・・・」

こんな感じで相変わらずの絶妙なかけあいで進行していましたが、2人とも寝ていないので眠気交じりのややゆったりとしたテンポ(笑)。

会場では参加者の方たちの朝食準備が始まり、前日まで大盛り上がりの場となったBJ-CLUBのスタッフさんたちは後片付けに入ったところでした。また、牛頭登山は朝7時までには帰ってくるという情報も入っていました。

「できれば登山から帰って来られて出迎えのところも何とか放送できれば、と思いますが・・・」

コーナー前半はBIG JAMBOREEの初日を様子を振り返ったり、参加者向けにBIG JAMBOREEのこのあとのプログラム(オプショナルイベントから解散まで)のインフォメーションをお伝えしました。途中、BJ-CLUBのマスター・OさんとBIG JUMBOREEの副実行委員長・Yさんに生インタビュー。

「げ~んきですよ~!!」と拳をつきあげ、絶好調なOさん。

「予想以上に留学生と日本人の交流が生まれて非常に有意義なものになりつつあるのではないでしょうか・・・」と真面目にBIG JAMBOREEを振り返る副実行委員長のYさんに、印象に残ったことは?と尋ねると「個人的にはMIDNIGHT THEATERの時の名作アニメ集でムーミンに久しぶりにお目にかかれたことでしょうか・・・」とコメントしながらアニメ・ムーミンのテーマソングのワンフレーズをさらっと歌うYさん。これにPさんや近くにいた参加者も歌声に参入。朝の和やかな雰囲気につながりました。

後半からグランドフィナーレにさしかかる6時40分、DJ2人でBIG JAMBOREEを振り返る感想をコメント(なるべく当時しゃべったままを載せてみます)。

私「これだけ大きいキャンプ、国際交流キャンプですが、国際交流とかっていうと、まだ身構えてしまうむきが一般的にあると思うんですよね。わりとこう、外国の人のたちのために何か良いことをしなければいけないという感じで活動している方も結構おられますが、国際交流というか、人間と人間の交流っていうのは別に国が一緒であろうが違おうが、昨日の晩みたいにみんなでわーっと盛り上がったりとか、その場の雰囲気で一緒に一つのことをやったりとか、そういうところから交流が始まるんじゃないかと思うんで、そういう意味では今回のBIG JAMBOREEは国際交流という、結構名前にふさわしい盛り上がりをみせたんじゃないかと思うんで、個人的には大成功だったんじゃないかと思います・・・」

Pさん「最初の出だしの料理(留学生による各国の料理作り)のところなんて大丈夫かな、なんて多少あったんですけれどもなんなくそれも徐々にクリアでき、少しづつですけれどみなさんとお話でき、それでみなさんが楽しく交流をやっているところを見ると、やっぱり一生懸命企画を立ててきた私たちにとってすごく嬉しいことですから。私たちスタッフがなかなか交流の場がもてなかったのはちょっとさびしくて残念でしたが、全体的には本当になんか一生懸命自分たちで作ってきたものがこれだけのものができた、っていうのがすごく心に残っているので参加者のみなさんにも心の中にほんの片隅にでもいいですから残っておいて私たちみたいなのがいたんだな、っていう風に思っていただきまた来年は自分が今度はスタッフをやるぞ、って気で来年も来ていただけたら、って思います。」

私「そうですね。MIDNIGHT ON AIR・2の中の(参加者の)インタビューで"ファイヤーを見ると何でも一つになってできるんじゃないか、という気持ちが湧いてすごくいいですよ"とおっしゃっていましたが、本当にみんなが一つになって盛り上がったというか交流したということでこれをまたきっかけに来年、再来年とこのBIG JAMBOREEの企画は続いていくと思うので、これからも交流がこういった形で続いていったらいいな、と思いますね。」

Pさん「それから、(リラックスタイムでの)天文協会の方やいろんな各先生方やみなさんにお手伝いに来ていただいていますしね。いろんな方の協力をしていただいて作り上げられたことにも感謝しないといけないんじゃないかなあ、って思いますね。」

私「そうですね。一人一人が協力し合って僕らみたいなスタッフや参加者だけじゃなくてこのJAMBOREEにいろんな形で関わられた方々に感謝をしなければいけないですね・・・」

Pさん「そうですね。本当にみなさんともっともっとお話できたらよかったんですけど、なかなかそういうわけにもいかなくてもうすぐ終わっちゃうんですが、これをいい機会にね、またどこかで(みなさんと)お会いしたら声をかけてくれることぐらいきっとできるんじゃないかな、って思いますね。」

私「そうですね。またこういう機会がありましたらみなさんとお会いしたいですね。みんな素敵な人ばかりで、素敵だというか、輝いているものをみんなそれぞれ持った人たちが集まってこられたんで、また会った時に何かやれるんじゃないか、そんな気がします。」

Pさん「ええ、そうですね。その時にはまた一緒にね、こうパーっと盛り上げて何か一つののことをドンって大きいものをやってしまえれば、って思いますね。」

6時55分、オールナイト放送の締めくくるグランドフィナーレに。

Pさん「異様に妙に盛り上がっていてすごく疲れた時間がありましたが、それも一つの思い出として残しておきたいなと思います。」

私「今回のDJ(ラジオ)に協力して下さったみなさん、どうもありがとうございました。本当は他の協力して下さったみなさんやスタッフのみなさんにも一言いただきたかったのですが、今日はこういった状況ですので、私とPさんで締めさせていただきますね。」

Pさん&私「本当に皆さん、8時間という長い時間、どうもありがとうございました。お送りしてまいりました、WAVE JACK ALLNIGHT ON AIR in YAKATSU、これにて幕を閉じたいと思います。・・・それでは、またみなさんどこかでお会いしましょう!みなさん、さようなら!」

参加者の方々からのねぎらいの拍手の中、8時間に渡るオールナイト生放送はこうして無事に終わりました。


ちなみにBIG JAMBOREEでのオールナイト放送は翌年(1992年7月11日~12日)も行いました。当時の音源が手元になく、残っている資料や写真で振り返ると、この年も会場は青少年野外活動センター。22時から深夜0時まではグランドで行われたカーニバルイベントの様子をラジオ放送し、なおかつ私はDISCO DJ(今でいうところのCLUB DJ)を行いました。その後午前0時から翌朝7時までラジオDJとしてぶっ通しでラジオ放送を行いました。ラジオ放送の時間帯はものすごいどしゃ降りとなり、そんな中のりのりでDJをやったという覚えがあります。

少々の天候不良やどしゃ降りが予想される中でも200人の参加規模で野外で1泊2日のキャンプという、こうした大きなイベントを中止せず決行するなんて、今では考えられないことですが、少なくとも30年前はそんな時代でした。

次回以降のHISTORY2では、センター館内で行ったイベント放送や青少年センター主催イベント(YOUNG FESTA)での特別放送について、当時の資料や画像とともに少しご紹介していきます。当時の活動を通じて、1990年代前半の"空気"も感じていただけたらいいな、と思っています。